2021 3月のアーカイブ

ホームページをリニューアルいたしました。

株式会社髙田地研のホームページをご覧いただきまして誠にありがとうございます。

 

この度、弊社ホームページを全面的にリニューアル致しました。

 

お客様により快適にホームページをご覧いただけるよう

ページ構成ならびにサイトデザインの見直しを実施致しました。

今後とも、より一層のご愛顧を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

カテゴリー:お知らせ

第12話 ~Another World~

 地質調査の下見や踏査で山の中に入ると、錆び付いた鉄骨や何に使われたか分からないコンクリート躯体など、明らかに人工的な構造物に出くわすことがある。時にそれらの周辺に藪に埋もれるように家屋の残骸や石段、石碑・墓石など、人々が生活していたと思しき痕跡が残されている事もある。人々から遺棄されたそれらを「遺構」と呼ぶが、直に目の当たりにすると今立っているその空間だけが忽然と外界から切り離されたような寂しさと、一抹の不安感を覚えるものだ。


 写真は昭和11年に開通した栗子隧道の福島県側坑門である。訪れる人も無い山の中に今でもひっそりと佇んでいる。米沢から福島へと通じる街道は、明治初期まではJR路線の近くを通っていた板谷街道が使われていた。しかし道が狭隘で物資の大量輸送ができず、冬季は通れないなど街道としてはいささか情けない状態であったため、これを憂えた当時の鬼県令・三島通庸の発令によって栗子隧道を含む新街道・萬世大路(ばんせいたいろ)が整備されたのである。ちなみに「萬世大路」の銘は東北巡幸の際立ち寄った明治天皇によるものと伝えられている。写真にある栗子隧道は、明治期に建設された初代の栗子山隧道を拡幅整備した二代目であり、西栗子・東栗子に分かれた国道13号線のトンネルが三代目、東北中央道の栗子トンネルが四代目となる。明治期の初代隧道は全長860m余で、当時日本最長を誇った。付近の地質はやや古い時代の流紋岩が主体で、地質図上の表記では岩体・岩石共に3Cの最高ランクの硬さである。山形県側には初代隧道の坑口が残っているが、その内部は石鑿(いしのみ)で削られた跡がが生々しく残り、いびつなゴツゴツとした岩肌ががあらわになっていると云う。人力だけで硬岩相手に日本最長の隧道を掘削した、往時の技術者(職人)の壮絶とも云える奮闘の様子が目に浮かぶようである。


 萬世大路の整備と共に宿場町として大瀧・大平(福島側)川越石(山形側)などの集落が栄えた。大瀧宿の町並みは半ば朽ちつつ今も旧道沿いに残るが、ほか二村はどこに民家があったのかさえ定かでない。栄枯盛衰を極め、人々が行き交う住民の確かな生活があった彼の地も、今では太古からの静寂に戻っている。当(まさ)に兵(つわもの)どもが夢の跡である。
ところで平塩の塩泉をはじめとする山の塩分はいったいどこから供給されているのだろうか?。今の地盤を形作る過程では、かつて付近一帯が海だった時代(中新世中期)があり、それが徐々に隆起や新たな堆積物の供給により浅くなり(中新世後期)、入り海や湖の時代(鮮新世)と変化してきている。地層の生成と共に地下に貯留・封入したままになっている海水を「化石海水」と呼び、これが塩水泉や多くの温泉成分の元となっている。化石海水はヨーロッパや中南米などの降雨の少ない非火山地域では、徐々に乾燥濃縮し岩塩となる。しかし降水の多い日本では浸透水も多いため塩は液体の間隙水としてのみ存在する。日本の塩泉の濃度は約1.0%前後の事が多く、くだんの東北クリーン開発様の井戸で最大0.6%程度、寒河江市塩水の渡辺外科胃腸科医院様の井戸水で約0.8%、小塩の農水省の井戸で約1.0%、弊社の新髙田温泉で塩分が約1.3%である。その他目安として海水がおよそ3.5%、濃口醤油が約14%相当となる。平塩塩泉の塩分濃度は塩化物総量で計算上約2.5%に達し、近在の塩泉の濃度としては飛び抜けて高い。例外として兵庫県の有馬温泉はプレート境界に取り込まれた塩水が湧き出す特殊な温泉であって、塩分濃度は実に6%に達し日本一濃い。(ホテルの値段も高い‥)そんな温泉に浸かると漬け物になりそうで血圧の高い私はいらぬ心配をしてしまう。まあ、どうせ泊まりに行ける機会は一生無いであろうから全くの杞憂なんだが。

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特別号 ~雑味は旨い!~

 山形盆地の西側には「塩」を含む地名が多数存在する。代表的なところで、出塩・塩辛田・小塩・平塩・塩水・塩ノ平・塩の淵・塩田など、枚挙にいとまが無い。それらの多くで塩分を含む地下水が湧き出ており、古来より人々の生活に大きく関わってきた。弊社でもこれらの地区の背後に当たる山中で東北クリーン開発様の使用水確保のため何本もの井戸を掘削したが、地下水に高い濃度の塩分が含まれており、対処に苦慮した経験をもっている。このような塩分を含む地下水を日々のくらしに有益に利用していたのは寒河江市の平塩地区だけである。その他の地区は塩分によ
り植物が育ちにくい土地とか、田畑への引水に注意しなければならない水とか言うネガティブな扱いを受けてきた。


 平塩舞楽で有名な平塩熊野神社の近くに小さな祠(ほこら)が祀られている。祠の中にはやや白濁した小さな湧き水の溜まりがあり、これがかつて村内に数ヶ所あったという塩水泉の一つである。そもそも当地の地名「平塩」は、かつてこの水から生活用の食塩を得ていたという史実より「煮詰めて冷やした塩→冷や塩→平塩」に転訛したものと云われている。戦時中まで細々とこの食塩造りが受け継がれてきたが海塩が潤沢に流通するに伴い、その後永らくその伝統が途絶えていた。ところが近年、地元産品の掘り起こしの一環として、有志の方々が再び食塩製造に乗り出していると聞く。(まだまだ試作段階のようだ)平塩地区を含め山形盆地西縁に湧く塩水は、いわゆる食塩分(塩化ナトリウム)のほか、様々な電解質と鉄分などのミネラルや硫化物(硫黄分)など雑多な成分が含まれている。平塩地区のそれは他の地区よりいくらかこれらの雑成分が少ないが、それでも何回もの濾過や沈殿を繰り返さないと食用塩にはならいという。人間の舌と云うものは純粋な成分ほど「すっきりした味」と感じると同時に「尖った・きつい味」ととらえる。手間暇かけた平塩の塩は「奥行きのある・甘みを感じる」極上の味わいに仕上がっているそうだ。


 いきなり脱線するが、福島県の115号線、つちゆロードパーク(道の駅つちゆ)では、かつて弊社で施工した水源井戸が完成するまで、飲料水はふもとの土湯温泉からタンクローリーで運び上げていた。当時はこのような施設に必須とも言えるそば・うどんなどの軽食コーナーも無く、手洗いには「この水は飲めません」の張り紙。全体に寂れ、どこかうらぶれた雰囲気が漂っていたものである。福島市より水源開発を委託された私達は、手洗いに引いていた山水の水源地に行ってみた。そこには小さな沢に堰を設け、イモリの泳ぐ水中に網かごをかぶせた黒パイプの吸い口が覗いていた。試しに、沢水をすくって直接口に含むと瑞々しい若葉のような香りとまろやかな甘みを感じる。「旨い!」。私はこう見えても山岳部出身である。自然の沢水は鉱毒を含んだヤバい水まで腹を下しながらもさんざん口にしてきた。つちゆロードパークの飲用不可の源水は、かつて味わった自然水の内、一・二を争う旨さであった。山野に積もった落ち葉は長い時間をかけて分解され、フミン質という高分子有機物が生成される。その中には様々な芳香を放つ成分とアミノ酸や単糖類に変化する物質が含まれており自然水に複雑な香りやうまみ・甘みを与えてくれる。平塩の塩と同様、自然の雑味は人間の舌には滋味溢れる優しい甘露となるようだ。


ところで平塩の塩泉をはじめとする山の塩分はいったいどこから供給されているのだろうか?。今の地盤を形作る過程では、かつて付近一帯が海だった時代(中新世中期)があり、それが徐々に隆起や新たな堆積物の供給により浅くなり(中新世後期)、入り海や湖の時代(鮮新世)と変化してきている。地層の生成と共に地下に貯留・封入したままになっている海水を「化石海水」と呼び、これが塩水泉や多くの温泉成分の元となっている。化石海水はヨーロッパや中南米などの降雨の少ない非火山地域では、徐々に乾燥濃縮し岩塩となる。しかし降水の多い日本では浸透水も多いため塩は液体の間隙水としてのみ存在する。日本の塩泉の濃度は約1.0%前後の事が多く、くだんの東北クリーン開発様の井戸で最大0.6%程度、寒河江市塩水の渡辺外科胃腸科医院様の井戸水で約0.8%、小塩の農水省の井戸で約1.0%、弊社の新髙田温泉で塩分が約1.3%である。その他目安として海水がおよそ3.5%、濃口醤油が約14%相当となる。平塩塩泉の塩分濃度は塩化物総量で計算上約2.5%に達し、近在の塩泉の濃度としては飛び抜けて高い。例外として兵庫県の有馬温泉はプレート境界に取り込まれた塩水が湧き出す特殊な温泉であって、塩分濃度は実に6%に達し日本一濃い。(ホテルの値段も高い‥)そんな温泉に浸かると漬け物になりそうで血圧の高い私はいらぬ心配をしてしまう。まあ、どうせ泊まりに行ける機会は一生無いであろうから全くの杞憂なんだが。


 平塩地区の背後の山々は、深い海の時代に生成した「月布層」相当の泥岩の上にやや浅い海の時代の「橋上層」の砂岩類が厚く堆積している。丘陵地のふもとに位置する平塩地区はこの橋上層に接している。では湧き出す塩泉の源(塩分)は、この橋上層に含まれているのであろうか?答えはほぼNOである。無論この橋上層(砂岩)も海の中で出来た地層なので、太古には塩分を多量に含んでいた。しかし、透水性の高い砂岩では降雨による浸透水により塩分が洗い流されてしまう「溶脱」が進みやすいため、地層中の塩分はどんどん失われてしまう。特に溶脱が生じやすい山地・丘陵地の砂岩では水溶性の塩分は限りなくゼロとなる。では現在の塩分の供給元は何処かと言うと、結論的には月布層(泥岩)等の透水性の低い地質となる。しかしだ、透水性の低い「泥岩」に孔をあけても本来、ほとんど地下水は集まらないはずだ。では塩水の出る井戸はどこから水が入ってくるのだろうか? 実は泥岩から長い時間をかけ少しずつ溶出した塩分を含んだ水は、ただの浸透水(真水)より比重が大きいため、地層のくぼみや亀裂に溜まると塩水が下・真水が上の二層にきれいに分かれる。それらはいつまで経っても混じり合わないばかりか、上層の真水だけがサッサと短期間で流出してしまい、後には塩水たまりだけが残される。だからこの貯留した塩水層に井戸を設けるとしょっぱい地下水となる訳だ。平塩の塩泉水も大元は泥岩層の塩分とみられる。おそらく塩水泉周辺は、表流水や真水の湧き水(浅層地下水)などが無く、水の循環供給が乏しい地区と推察される。そのため、地下深部の泥岩層から少しずつ湧き上がる塩水が薄まらずに、地表まで達する事ができたのだろう。


 我々が口にする食塩の風味は塩化ナトリウムを除いたその他の成分で決まる。であれば、海の水から得られる海塩は日本、いや世界全体でもそんなに差は無いはずだ。それに対して内陸塩(山塩)はその土地土地によって組成成分が大きく異なると同時に当然味わいも違う。ちなみに、有名な赤穂塩や伯方塩は輸入した外国産の内陸塩に日本の海水を足して製造した「調整塩」であり、多くの雑成分を含んでいるものの純粋な日本の塩では無い。


 日本国内の内陸塩としては、福島県北塩原村の大塩温泉の会津山塩がある。生産・供給量はごく少なく、薪釜で煮詰められたそれはまろやかで風味豊かな塩だという。ここ山形の土地・風土に根ざし歴史に裏付けられた「平塩の塩」も、いつか寒河江の焼き鳥やラーメンに使われ、それらと共に地域の名産品に育ってくれる事を期待したいものである。

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第11話 ~紅茶のお供に~

 ミルフィーユのように赤紫と灰白色の縞模様が美しく重なるこの石は山形近郊、長谷堂-隔間場に産する縞状流紋岩である。昭和60年頃より盛んに採掘され、造成盛土材として大量に市井に出回った。山形地区一円から寒河江西村山で山砂利といえば、この石が普遍的に用いられていたものである。私が入社した当時は小高い山であった原石山も、現在は採掘跡の平地に太陽光パネルが並ぶなど大きく様変わりし、採石自体はほとんど行われていないようである。
地下のマグマが直接の成因となる岩石を「火成岩」と云い、その内、地表近くで速やかに冷却したものを「火山岩」、中でも石英や長石などケイ酸分に富むものを「流紋岩」と云う。岩石としては全般に白っぽく明るい色調であることが多いが、ケイ酸分以外の鉱物の種類や冷え方によってはかなり暗色の流紋岩もあるため、色だけで岩種を決められるものでは無い。たとえば石器時代に多用された黒曜石も流紋岩の仲間と云えるが、その名の通りガラス質の真っ黒な石となっている。


 隔間場の流紋岩は、中新世中期(約1,300万年程前)に海底に噴出した溶岩によって生成したものだ。噴出溶岩の外殻は海水で急冷されてバラバラに砕けるが、中心核に近い部分では、漸次供給される溶岩の圧力によって流動しながら徐々に温度を下げて固まってゆく。岩石を造る鉱物はその成分によって固結温度が微妙に異なるため、流動しながら組成成分が凝集しあの見事な縞模様(流理構造)を造ったものと考えられる。溶岩の成分と温度、量と噴出速度、周辺環境のどれか一つでも違えばこの石は生まれなかった。まさに奇跡の産物である。また、流紋岩は冷却と共に規則性のある亀裂(節理)が発達し、岩質も硬質な割には割れやすい。そのため比較的容易に採掘でき、低コストで山砂利を開発・供給できたのである。


 隔間場の縞状流紋岩は日本全体を見わたしてもあれほど見事な流理模様は無い。一時期、ある方がこれを研磨・成形して飾り石して売り出そうと試みたという。だが岩質が災いして加工が難しく、コストに見合わずこれを断念したという。まぁ、山砂利として利用する立場からすれば、変な付加価値が付かず安価に利用できて良かったと言える。

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第10話 ~時が止まった村~

 最上峡の中ほど、大河の右岸側に舟下りの名所・外川神社(仙人堂)が建立されている。それを携える小外川という集落がかつてここにあった。入社して数年目の冬、帰路を急ぐ車の助手席でふと河の向こうに視線を向けると、ぼんやり灯る明かりが一つ二つ。対岸から漏れ届く光に杉木立がおぼろに浮かび、背後の山々は闇に溶け込んでいた。その水墨画のような幽玄の世界に魅入られ、私はしばらくその情景が脳裏から離れなかった。小外川集落は最盛期24人の児童を擁した小学校まであったが、渡し舟でしか往来できない交通の不便さから次第に衰退し、平成10年頃に最後の住人がこの地を去っている。


 最上峡も朝日町五百川渓谷と同様、出羽山地の隆起帯に含まれ、最上川の浸食とせめぎあって険峻な深谷を形成している。国道・JRの交通網や僅かばかりの平地の大半は最上川の左岸側に集中しており、対する右岸側は岸辺から直に立ち上がる急崖だらけで通じる道は一本も無い。最上峡には殆ど堆積平野がないが、この小外川集落付近には比較的大きな3本の支流が流れ込んでいるため低平な開析段丘が形成されている。また急崖の上方の山稜部は尾根を挟んで左右の勾配が異なるケスタ地形と呼ばれる特有の尾根筋が連なっている。これは最上川に直交する幾つもの断層線と草薙層(黒色泥岩)の堆積面(層理)の傾きによるものである。尾根と尾根の間の谷間が急崖の上方に並ぶため、降雨後には最上峡四十八滝とも呼ばれる大小幾つもの滝が現れ、あたりは荘厳な雰囲気を醸し出す。


 小外川集落はその昔、最上川の舟運のために、事故の救難や氾濫時の避難所として設けられた川役所が起源であるという。義経が弁慶と共に奥州藤原京を目指して最上川を遡行したという伝説や、前九年の役で八幡太郎義家がこの地に楯を築いたとか、後年、芭蕉が詠んだ名句「五月雨を集めてはやし最上川」の舞台になった(と言われている)ことなど、この小さな村は歴史のページに度々登場してきた。悠久の時を経て最上川は今も変わらず滔々(とうとう)と流れるが、外界から近くて遠く隔絶したこの地に人々が刻んできた史実は、もうこれ以上紡(つむ)がれることはないだろう。

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第9話 ~誰も知らない絶景~

 山形県には、日本の棚田100選として大蔵村四ヶ村・山辺町大蕨・朝日町椹平の三つが選ばれている。棚田はご存じの通り傾斜地に何段も連なる小さな水田の集まりであり、これら三箇所もそれなりの美しさは感じる。しかし、何れも機械施工を前提とした土地改良の済んだ長方形の水田であり、「日本の原風景」のイメージとはチョット違うと感じるのは私だけではないはず。


 添付写真は1970年代の朝日町上郷地区の空中写真である。写真サイズの関係で良くわからないかも知れないが、大きく赤楕円で示した範囲のほぼすべてが棚田である。小さな谷川沿いを人力で切り開き100段余もの膨大な段数の棚田が耕作されている。しかも、その一つ一つは人力でしか耕作できない小さな不定型のひょろ長い水田であり、それらが数百も集まり山間の斜面を埋め尽くしている。先達が何百年も掛けて開墾し、子々孫々と受け継いできたた棚田であり、当に脳裏にある郷愁の中の原風景そのものである。私はこの上郷の棚田、規模や美しさではかの有名な石川輪島の千枚田にも決してひけを取らないと思っている。


 上郷集落を含む五百川渓谷周辺は、出羽山地の隆起帯に含まれており、最上川はその先行河川である。つまり地盤の隆起と河川の浸食がせめぎあって急速に進んだ地区であり、最上川周辺は地盤の本来持っている強度以上の急峻な浸食地形を形作っている。いたる所に不安定斜面が点在し、地すべりや崖崩れなどが頻繁に生じるのも河川浸食が急速に進んだための悪影響に他ならない。上郷地区も平坦な地形は殆ど無く、古の人々は山間の傾斜地(多くは崩壊斜面)を膨大な年月と労力を費やし、少しずつ切り開いてこの絶景を造ったのである。
上郷の棚田は現在、その大半が耕作放棄地となって原野に戻りつつある。農村人口の高齢化と共に急速に失われつつある風景に寂寥の感を禁じ得ないが、観光地化など日の目を見ずに人々の記憶からも消え去りつつある一つの社会資産と考えると非常にもったいないと感じてしまう。

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第8話 ~ウネウネは嫌い!~

 会津は古来より米の大穀倉地帯であったが、同時に洪水の常襲地帯でもあった。これは会津盆地より流れ出る河川が阿賀川1本しか無く、しかも盆地端で川が狭窄してウネウネと蛇行しているため、排水能力が極端に低い事が主たる原因であった。添付の写真を見て欲しい。水色で示した部分はかつての阿賀川の流路であり、現在、それらはショートカット(捷水路:しょうすいろ)化して河川が大幅に短くなっている。同時に数mの河床の掘り下げも実施されており、会津盆地のボトルネックが大幅に改善されている。


この捷水路の建設工事は、大正10年から始まった国策事業であったが戦時色が強まる昭和14年に未完成のまま中断している。戦後再開されたが事業が完全に完成したのはなんと平成10年であり、完成まで実に80年余もの長い年月を要している。工事にはあの信濃川-大河津分水の建設で使用された、イギリス製の大型蒸気掘削機械を転用して掘削が行われたと云う。周辺は決して平坦な地形では無い。全体として緩やかな丘状の地域であって、阿賀川沿いは岸辺が数十mもの切り立った断崖になっている箇所がいくつも存在する。これを人が掘削したのかと思うとその根性に恐れ入るばかりである。大河津分水の場合、信濃川と日本海との間を単純に仕切って間を掘削しただけであるが、当地の場合、相手は生きている河道である。何ヶ所もの仮締切り(河川の中に矢板等で施工範囲を仕切る工事)を繰り返す必要があり、大型クレーン等の無い時代、どのように施工されたものか不思議にさえ思う。たゆまぬ創意工夫とおそらくは少なくない犠牲があったのではないかと察するに余りある。


私がこの捷水路を知ったのは、旧山都町での調査に要した空中写真であった。調べてみると当時の時代背景と共に人々の生々しい生活の様子なども浮かび上がってきた。この橋も道も無かった、向かいの部落に行くのに渡し船‥‥大河の如くゆったりとした時間の流れも感じられた。

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第7話 ~幻の立谷川温泉~

 山形盆地は奥羽山脈と出羽山地に挟まれた地溝盆地である。「地溝」とは、両側が断層で境されて落ち込んだ溝状低地である。今まで山形盆地の「断層」については、盆地西側のものばかり説明してきた。それらと対になる盆地東側の断層については、年代が古く堆積物も多いためあまり明らかになっていない。ここで私見の一端を述べたい。山形盆地を南から斜めに眺めると、山形市山家地区裏の丘陵~天童市舞鶴山~村山市土生田地区の山地の縁が見事に一直線に並ぶ。(図の赤線)また、天童市の貫津付近と東根の旧市街付近にもおぼろげな線状構造(東根谷,貫津谷と示した青線)があり、山形市高瀬地区と宝沢地区にも同方向の線状構造が並んでいる。天童温泉と東根温泉は二線の交点近傍に当たるがこれらの線状構造と温泉との関連性は何かあるのだろうか?


以前私は「盆地内部でも地表近くの高温の温泉は火山性である」と述べた。東根温泉も天童温泉も僅かな深度で高温の温泉を得ている事より、共に熱源は地下深部の火山熱であると推測できる。であればその直下には熱水が上昇する隙間がある事になる。連続した鉛直方向の隙間と云えば断層である。構造的に考えれば、盆地を縦貫する“赤”断層は初期の奥羽脊梁山脈の隆起運動、斜交する“青”断層は後の北側への変位を含む脊梁の隆起によるものと考えられる。つまり、閉じかけた地下深部の古い主断層を、強引にこじ開ける斜めの断層変位が生じて隙間が発生し、その真上に、天童・東根温泉が開湯したと考えられるのだ。


では併走する高瀬谷と宝沢谷の延伸方向には温泉の熱源はあるのか?結論から言えば高瀬谷の先(立谷川工業団地付近)では、熱源はあるが河川の浸透水が豊富なため途中で熱水が拡散してしまっている状態、宝沢谷延伸部は新たな岩脈(流紋岩の小山)で閉塞された状態とみられ共に期待は薄い。(但し、岩脈自体も幾ばくかの熱は持っている)
以上はあくまで私論に過ぎないが、地下水や温泉や地形や地質から「なんでだろう?」と日々疑問を持ち推考する姿勢が、地下を相手にする我々に特に必要な心がけではないだろうか。

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第6話 ~花崗岩はツンデレ?~

 朝日山地の峻嶺(しゅんれい)は「白亜紀」(約6500万年前)に地下深くでマグマが固まった花崗岩である。(注:県外では古生代の古い花崗岩もある)地下水を開発する者にとってこの花崗岩、不倶戴天の敵であり、硬くて掘りにくく、苦労して仕上げても水が出ないと云う踏んだり蹴ったりの結果となることが少なくない。ところがである、トンネル技術者に言わせると花崗岩は、水に恵まれた地下水の豊富な岩盤だと云う。この認識の違いはなんなのだろう?


花崗岩という岩石は造山運動によって大きく隆起し地表に表れている。造山運動というのはプレートの動きで地殻が圧迫され、シワが寄って盛り上がるような現象である。軟らかな岩盤では左右から圧迫されてもしなやかに地層がうねって力をかわす。(これを褶曲という)しかし花崗岩は強情なので、限界まで我慢した後、突如として大きな断層を伴って地盤が破断する。なので朝日山地などの隆起山脈は、山列の両側に幾本もの大きな断層を伴っている。
花崗岩は強靱なため細かな亀裂は入りにくく、代わりに断層などの大きな亀裂・裂け目が疎ら(まばら)に発達する。雨水などによる地下水涵養は岩盤表面からの浸透水が少なく、その分大きな亀裂面に地下水が集中して貯留する事になる。


このように、希に存在する急角度の亀裂面に鉛直な水井戸を掘削する場合、井戸の適切な深度で地下水を包蔵した亀裂に“遭遇”しないと水は得られない。ところがトンネルは山脈を横に貫く工事であるため、否応無く何ヶ所もの断層を貫く事になる。その中で地下水を多量に溜めた亀裂(断層)に当たると、突如として大出水の事故が起こる訳である。何と言うことはない、井戸とトンネルではこういった亀裂に遭遇する頻度と確率が違いすぎるのだ。


兵庫・六甲(~のおいしい水)、山梨・白州(南アルプスの~)に限らず、花崗岩地帯のわき水は非常に清冽で美味しいことでも有名である。我々にはツンツンと冷たい岩だが、自然の摂理の中では皆にやさしいうるおいも与えている。

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第5話 ~白岩楯と陣ヶ峰~

 寒河江市白岩に「楯」という地区があるのをご存じだろうか。もともと楯と云う地名は昔の城館を指し、これは当社の立地する「本楯」にも通じる。白岩の楯は、現在の白岩小学校の北西側、白岩主部を見下ろす高台にあり、江戸時代に「白岩城」があったとされている。この楯地区は平地が高さ40~50m程度の小山をぐるっと一回りした環状平地(ハット型地形)という極めてヘンテコな地形をしている。場所的には葉山から流れ下る実沢川の下流部で、すぐ南側は白岩市街地へ落ち込む崖となっている。何でこんな崖の上に珍妙なまあるい平地が形成されたのだろう?


 実はこの地形、寒河江川と支流(実沢川)の変遷と特徴ある地質構造によって生成した特殊な段丘だと思われる。最初(おそらく十数万年前)、小山の西~南側を流れていた実沢川が、本流の寒河江川の下刻(洗掘が進んで河床が下がる事)によって、より軟質な小山の北~東へと流路を変えた。そして次第に実沢川の侵食が進み、結果、周辺が崖の上の環状平地として残されたものと推察される。付近の地質は粗粒で軟らかく浸食されやすい地質(凝灰質砂岩)を主としているが、その中に、細粒で硬く浸食されにくい部分が帯状・島状に点在している。付近の実沢川の流路の蛇行具合を見れば大まかな地層の硬軟が見て取れる。つまり、河川はこの硬い部分を避けながら浸食していったため、このような変な地形が生成したのである。


 実は河川の下刻によって高台の平地が残存した地形は、寒河江川流域では珍しくない。代表例としては慈恩寺の西側に接する陣ヶ峰台地が挙げられる。陣ヶ峰も寒河江川岸に接した高い孤立した段丘であり、当初近傍を流れる田沢川下流の開析面であったものが、寒河江川の下刻とともに崖上にポッンと残されたものである。


 河川の流れはその流路周辺の地形・地質によって流転を繰り返す。障害物を乗り越えたりかわしながらもただひたすら大河を目指し流れ下る。そのひたむきさは人生の歩みにも似ている気がする。まさに「川の流れのように」である。

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