さんぽみちのちしつColumn

第8話 ~ウネウネは嫌い!~

2021年03月31日(水) 

 会津は古来より米の大穀倉地帯であったが、同時に洪水の常襲地帯でもあった。これは会津盆地より流れ出る河川が阿賀川1本しか無く、しかも盆地端で川が狭窄してウネウネと蛇行しているため、排水能力が極端に低い事が主たる原因であった。添付の写真を見て欲しい。水色で示した部分はかつての阿賀川の流路であり、現在、それらはショートカット(捷水路:しょうすいろ)化して河川が大幅に短くなっている。同時に数mの河床の掘り下げも実施されており、会津盆地のボトルネックが大幅に改善されている。


この捷水路の建設工事は、大正10年から始まった国策事業であったが戦時色が強まる昭和14年に未完成のまま中断している。戦後再開されたが事業が完全に完成したのはなんと平成10年であり、完成まで実に80年余もの長い年月を要している。工事にはあの信濃川-大河津分水の建設で使用された、イギリス製の大型蒸気掘削機械を転用して掘削が行われたと云う。周辺は決して平坦な地形では無い。全体として緩やかな丘状の地域であって、阿賀川沿いは岸辺が数十mもの切り立った断崖になっている箇所がいくつも存在する。これを人が掘削したのかと思うとその根性に恐れ入るばかりである。大河津分水の場合、信濃川と日本海との間を単純に仕切って間を掘削しただけであるが、当地の場合、相手は生きている河道である。何ヶ所もの仮締切り(河川の中に矢板等で施工範囲を仕切る工事)を繰り返す必要があり、大型クレーン等の無い時代、どのように施工されたものか不思議にさえ思う。たゆまぬ創意工夫とおそらくは少なくない犠牲があったのではないかと察するに余りある。


私がこの捷水路を知ったのは、旧山都町での調査に要した空中写真であった。調べてみると当時の時代背景と共に人々の生々しい生活の様子なども浮かび上がってきた。この橋も道も無かった、向かいの部落に行くのに渡し船‥‥大河の如くゆったりとした時間の流れも感じられた。

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