さんぽみちのちしつColumn
番外編 ~寒河江市の地下水~
南部小学校、中部小学校の4年生の総合的な学習の時間で、社長が地質と地下水について講演しました。その中から『寒河江市の地下水』についてご紹介します。
寒河江市は寒河江川と最上川に挟まれた土地で「段丘」や「扇状地」と呼ばれる川の流れで作られた地形です。
また、寒河江市には長岡山から高瀬山に続く地下の丘があります。
そのため、西側の豊富な地下水が東側に流れて行きません。
中部小学校もちょうどこの岩盤の上に建っています。
① 水を透さない岩盤の丘に接した寒河江市街地付近は、あまり地下水が豊富ではありません。でも地下の温度が上がりやすいので温泉が湧き出しやすい特徴もあります。
② 寒河江警察署付近には寒河江川の流れと同じ方向に流れる「伏流(ふくりゅう)水(すい)」と呼ばれる地下水があります。きれいでおいしい水のため、水道の水源としても利用されています。
③ 寒河江市立病院付近は「塩水(しおみず)」という地名です。地下深くに太古の海の水の成分が溜まっているため、その名の通りしょっぱい塩水が出る井戸があります。
④ 寒河江中央工業団地付近には大きな工場がたくさんあり、大量に地下水を汲み上げています。そのため将来、地下水がなくなるのではないかと心配されています。
⑤ 南部小学校を含む寒河江市南部地区と髙田地研のある東部地区は、寒河江川と最上川が影響し合ってできた「氾濫(はんらん)原(げん)」という土地です。地下水は比較的豊富ですが地下に川で流れてきた木の枝や葉っぱが溜まっていて、それが腐ることによりメタンガスが発生します。昔は、そのメタンガスを採取して燃料として利用したことがあります。このガスの採取井戸の事業が、髙田地研のはじまりです。
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第40話 ~山のいで湯はなぜ白い~
奥羽本線、峠駅。米沢と福島間の板谷峠にあるこの駅は、かつてスイッチバックで分かれた引き込み線に駅舎があった。その近くに「峠の力餅」と記された小さな店舗がある。家屋は他に一軒も無い。峠駅を最寄り駅とする温泉旅館が2軒、山奥にあるだけだ。こんな人里離れた一軒家の店舗だが、今も老夫婦が餅屋を営んでいる。温泉の土産品として、また、上下合わせて1日6本だけの普通列車の乗客のために毎日、力餅を作っている。
峠駅からおよそ8㎞、2時間以上も山道を登った先に姥(うば)湯(ゆ)温泉がある。ゆらゆらと不気味に揺れる吊橋を渡った先、斜面にへばりつくように建つ木造の建物は、旅館というより山小屋のイメージに近い。その先に、自然石で囲まれた露天風呂が設けられている。周囲は荒々しい岩肌が迫り、崖面から水蒸気が立ち昇る。頭上は遮るもののない濃紺の青空が迫る。まさに自然に抱かれた絶景の秘湯である。姥湯は、蔵王や吾妻高湯、乳頭温泉などと同じ火山性の酸性硫黄泉であり、乳白色の濁り湯に特有の湯香が漂う。遮るもののない大自然の中で裸になり湯に浸かると、限りない開放感と風景に没する卑小感を同時に感じる、形容しがたい独特の感覚を味わえる。
ところで、硫黄泉には大きく分けて二種類あるのをご存じだろうか?一つは、この姥湯のように白濁した酸性硫黄泉で、硫黄泉と言えば誰しもがこのタイプを思い浮かべる、ザ・山のいで湯である。正式には「遊離硫化水素型」と言われるタイプの硫黄泉で、源泉から湧出した瞬間は無色透明であるが、空気中の酸素と反応して硫黄成分がコロイド化して析出し、白濁した湯となる。蔵王をはじめとして活火山の熱源から直接湧き出す温泉に多い。もう一つは単に「イオウ型」と呼ばれ、pHが中性~アルカリ性を示すもので、火山から遠く離れた平地に湧く事が多い。硫化水素やチオ硫酸などがイオン状態で溶け込んだもので湯色は、無色から黄色・薄緑色の入浴剤のような色を示すものなどさまざまである。含まれる硫黄分は、ある種の菌により有機物が地中で分解したもので、火山脈とは直接の関係はない。県内では舟唄温泉や湯チェリーなどが挙げられ、新潟の月岡温泉も同じ系統だ。
これら硫黄泉では、白濁した「酸性硫黄泉」の方が刺激が強いようなイメージがあるが、実は平地に湧く「中性・アルカリ性」の温泉の方が体への負担が大きく、湯あたりもし易いのだという。
山形県は、思い立ってすぐに行ける近場に温泉入浴施設が必ずある。我々にとって当たり前でも、他県の人から見たらうらやましい環境なのだろう。今年の夏は猛暑で、とても温泉などという気分にはならなかったが、これからの秋冷の夜長や雪のちらつく風景に、湯の香が恋しくなる季節がすぐそこまで来ている。
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第39話 ~肘折温泉は活火山~
一見、遊園地のアトラクションのようにも見える鉄柱群は、大蔵村の肘折温泉の入口にある肘折希望(のぞみ)大橋である。あの東日本大震災の翌年、2012年の春に発生した地滑りにより、国道から温泉街におりる県道が崩落し使えなくなったため、県は急遽、新たなアクセス道路の建設に着手した。新たな道路は複雑なδ形軌道の鋼製ラーメン桟道橋で、このタイプの橋梁としては日本最大級の規模を誇る。鋼製ラーメン桟橋は、盛土の出来ない山岳道路などで多用されている方式で、多数の鋼管杭を地盤に打ち込み、そのまま上方へ橋脚を立ち上げ、鋼製の床板を載せて剛結するものだ。橋梁工事としては資材費が高くつくが、構造が単純で施工が簡単、何より工期が短いという特長がある。この希望大橋も24時間の突貫工事の末、着工より4ヶ月足らずで仮共用まで漕ぎつけている。
さて本題の肘折カルデラであるが、今から1万年ほど前の比較的短い期間に活動した火山である。山体は無く火口のみだが、気象庁の分類上では歴(れっき)とした活火山だ。直径2㎞程度の小盆地で、周辺8㎞程度の範囲にその噴出物が載った火砕流台地が展開している。カルデラ内では現在も地熱活動が活発であり、カルデラ中央部に黄金温泉、東端に肘折温泉がある。肘折温泉の源泉の多くは高温の沸騰泉で、川から水を引いて井内に注入し温泉水?を回収しているのだという。また、かつて近傍で、高温岩体発電のための大深度試掘調査が行われたことがある。250℃を越える高温が確認されたが、得られるエネルギー量が期待ほど多くなく、その後開発が進んでいない。
肘折火山の岩石は流紋岩~デイサイト質で、極めて粘っこい溶岩だった。このタイプの火山は爆発的な激しい噴火活動をすることが知られている。ここでチョット1万年前にタイムスリップしてみよう。月山北東麓の何もない丘陵地に、突如として小さな火山噴火活動が始まった。溶岩ドームの成長とその崩壊(火砕流)を繰り返し、火山は徐々に拡大していく。あるとき、火山内部の高熱と多量の浸透水により巨大な水蒸気爆発を生じ、山体のあらかたが吹き飛ぶ。その後、火山活動の沈静化と共に山体跡が200~300mも沈降し、陥没カルデラとなった。火山活動後しばらくは、カルデラ湖の環境となり、流れ込む銅山川によりカルデラ内の埋積が行われ、同時に周辺のカルデラ壁や火砕流台地の下刻浸食が進んだ。その結果、湖は干上がり、現在のような盆地地形が生まれたものと想像する。
当地に湧き出す湯を見つけた老僧(地蔵権現)が折れた肘を癒やしてから1200年あまり、雪深い山里のひなびた温泉街は今も人々の旅情をかき立てる。かつては体の傷や疲れを治すために、近郷近在の人々でにぎわった湯治場の湯。今は現代社会に荒み、日常生活に疲れた人々の心を癒やす新たな効能に、人々が惹(ひ)かれ訪れる。
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第38話 ~寒河江川慕情~
寒河江市の中心市街地に隣接した長岡山は、東北最大級のつつじ園や700本もの桜が咲き誇る市民の憩いと集いの場として、また観光スポットとして整備された総合公園でもある。その長岡山と北方の慈恩寺・醍醐(だいご)地区との間を寒河江川が横切り、そのまま河北町との境を辿(たど)るように東流し、山形盆地中央を北上する最上川へと向かっている。
河川が平野部に開口した部分に広がる半円形の堆積地を扇状地とよび、扇状地を含む平地が河川によって浸食された後、残った台地の部分を段丘という。現在、長岡山の西側に広がる寒河江中央工業団地周辺から寒河江市街地にかけてが「寒河江段丘」に、また、寒河江川周辺とその北側(河北町側)が「寒河江川扇状地」に分類されている。おそらく数万年前の寒河江川は図の①のように、長岡山の西側、平野山との間を流れていたと見られる。であれば、現在の長岡山から北側の慈恩寺間には、堤防となる丘陵地の尾根が続いていたことになる。そして中央工業団地付近から下流側に扇状地を造り、周辺に堅固な地盤と豊富な地下水を包蔵する堆積層をもたらしたのである。
あるとき、この細長い尾根(堤防)の一部が決壊し、図の②のように、河川が東側へと流れを変えた。尾根が途切れた要因に、地質と断層が関わっていたのは間違いない。この界隈は山形盆地の西側を限る山形盆地断層帯と、長井小盆地より北上する断層帯の端部が交わる地区にあたり、縦横無尽に断層が発達している。おそらくそれらの断層の1つが尾根を寸断する「切れ目」を入れたのだろう。また、現在の長岡山の一部には、著しく固結が低く粒子の粗い砂岩が分布する。断層により切れ目の入った部分が、このように脆弱な岩であったならば、流水によりたちまち侵食が進むことは想像に難くない。こうして丘陵を乗り越えた寒河江川は、かつて湖沼や湿地帯の広がっていたであろう未開の地を新たな流域として、洋々と流れ出していったのだ。その結果、長岡山は孤立した丘陵地へと姿を変え、そして旧来の扇状地は最上川の氾濫流により南側から浸食を受け、加えて活断層による変位を被(こうむ)って段丘となった。こうして現在の寒河江市街地周辺の地形の原型が出来上がったのである。
寒河江市周辺は、河川の変遷のほか断層の動きにより地形や地質の変化が非常に大きい。岩盤である長岡山と平野山に挟まれた中央工業団地には、実に200mにも及ぶ河成砂利層が堆積していること、市街地の真下に山形盆地と出羽山地の境となる断層崖が埋もれていることなど、地質技術者として興味が尽きない。
1300年の歴史を刻む本山慈恩寺の山の頂に、山王台公園なる見晴台がある。寒河江地区を含めた山形盆地南部一帯が見渡せる素晴らしい眺望に、太古の寒河江川の流れと、昔日の貴女の面影が見えた、そんな気がした。~♪寒河江がわあ♪~
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第37話 ~あんた、どこのγ線やねん?~
放射能と放射線、改めて聞かれると、ん?となる。そもそも放射線とは、原子が崩壊して生じた高エネルギーの粒子の流れであったり、ごく波長の短い電磁波であったりする。その放射線を出すトリチウムやセシウムなどを放射性物質、それから出る放射線の強さの事を放射能と言うんだとか。まぁ、日焼けする紫外線の親戚とでも思えば良い。
十数年前、とある業務で簡易の放射線計を手に入れた。これは本来、自然の環境放射線(γ線)を測定するものだ。私たちの身の回りには幾ばくかのγ線が常に飛び交っている。それは大地に含まれる微量の放射性物質からだったり、地球に降り注ぐ宇宙線の影響だったりする。γ線の線量は環境条件によって異なり、地盤で云えば断層の近くで強くなる。なのでこの測定器を持って野山を歩けば「なんかこの辺に断層がありそうだ」という目安が得られる。断層と言えば温泉。過疎化が進む山里に豊富な湯が湧けばじっちゃんばあちゃん大喜び。地域興しの原動力ともなる。そのお手伝いができれば私も(会社も)嬉しいな。そんな事を夢見るかつての紅顔の美少年?がいたとかいないとか。
ところがこれを手にしてまもなく、あの東日本大震災(福島第1原発事故)が発生し、大量の放射性物質がまき散らされた。弊社のある山形県寒河江市までにはその飛散物質は到達していないと言うが、実際は野外のγ線レベルが従前の1.5~2倍に跳ね上がっていた。また会社回りの側溝掃除を行った際、常時の10倍相当もの高い線量を示し驚愕した事を覚えている。現在でも水田の水路や湿地などで時折かなり高い値を示すことがあり、まだまだ事故の影響は残っている。
γ線は起因の物質によってその特性が異なる。放射能探査に用いるシンチレーションアナライザーとかいう装置であれば、原発で飛散した物質のものか、それとも断層を起因とするものかの区別ができる。だが簡易測定器は、小型で気軽に持ち歩ける軽便さが身上だ。その表示値はγ線の総量を示すので、何が由来のγ線なのかなどサッパリ判らない。本当の放射能探査の装置など、とてもポケットに入れて持ち歩けるような大きさで無いし、気軽に玩具にして良いようなシロモノでもない。こうして私の思惑は詰(つ)んだ。夢の構想は儚(はかな)く砕け散ったのだ。こんな原発事故の被害者もいるのだよ東電さん。
震災直後、この簡易測定器を公共機関に貸し出すように要請された。原発付近から避難してきた方々の衣服や持ち物の放射線を計るそうな。放射線計には違いないし非常事態でもあるので、余計なことは言わずに渡した。でも本来、衣服やモノの表面にくっついた物質の放射線でアブナイのはα線とβ線で、それを計測するのはかのガイガーカウンター(GM測定器)なんだよなぁ。貸し出した測定器はγ線計であってα線やβ線には反応しないのよ。まぁ今更なんだけどね。
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第36話 ~最上川地下に潜る~
山形県のほぼ中央部、葉山の東麓と村山市の河島山丘陵とに挟まれて、長島という小さな集落がある。地区は西側に長細く突き出た半島状を呈し、周囲を最上川がぐるりと取り巻き流れる。近くには最上川舟唄にもある三難所の内、三ヶ瀬(みかのせ)と隼(はやぶさ)があり白波を立てる早瀬となっている。この辺りの最上川は川幅が狭く両岸が切り立った浸食崖となっており、大淀狭窄部とも呼ばれる。地質は古い時代の凝灰岩で、三難所ではそれが川底に露岩し、舟運の障害となっていた。
令和2年7月28日、山形県を集中豪雨が襲った。特に置賜地域で降水量が多く、橋梁の損壊など甚大な被害を被った。しかしそれほど降雨がなかった下流の村山地域でも最上川が氾濫し、随所で浸水被害を生じたのである。その要因の一つがこの大淀狭窄部の流下能力にあったと言う。河川は降雨により水かさを増すが、その分流速が速くなれば問題は少ない。しかしこの地区は川底が凸凹した岩床となっており、加えて流路が穿入(せんにゅう)蛇行を繰り返している。河床が凸凹していれば流れの抵抗が大きく、蛇行すれば転流の度に流水は勢いを失う。よって水かさが増えても氾濫水の流速が上がらないので、大雨が降るとこの付近がボトルネックとなり、殊(こと)更(さら)に水位が高くなってしまうのだ。
これに対し国と県では大胆な治水対策を行おうとしている。それは長島地区の半島状の根元に分水(捷(しょう)水(すい))路を設け、河道をショートカットして下流側に直接放水してしまおうというものだ。捷水路は通常、大規模な堀割とする事が多いが、当地の場合、上部がそれなりに高さのある丘陵地であるため、地下トンネル方式が予定されている。しかも設置高さや水門の制御により、洪水時のみ通水するような仕組みを検討しているようだ。これにより施工後も三ヶ瀬や隼が干上がることなく、今の景観が大して変わらないと言う。他に類を見ない捷水トンネルは設計技術者の腕の見せどころ。どんな施設になるか刮目して待つべし。
その昔、山形盆地には藻ヶ湖(もがうみ)と云う巨大な湖があり、寒河江市西根と対岸の東根市貴船を連絡する船便があったそうな。藻ヶ湖の湖面の高さは標高90m付近らしいとのこと。くだんの村山市長島地区の古い河道跡(国道脇の水田)もほぼ90m。なのでこの水田面を最上川が流れていた時分は上流側に湖があったことだろう。だがこの高台を最上川が流れていたのは、少なくとも数千年前。とても船便がどうのと言える年代じゃない。思うに、かつては寒河江川も東根の白水川も流路が今とは違っただろうし、近くに船着き場があっても何も不思議は無い。これと太古の山形湖伝説がごっちゃになって今に伝わったのかなと。真面目に研究されている方には申し訳ないが、藻ヶ湖のお話しは古(いにしえ)のロマン、物語りの一つとして気軽に楽しめば良いのではないかな。
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第35話 ~金の神水~
寒河江市と村山市・大蔵村に跨がる頂きを持つ葉山は、古くは出羽三山の一峰に数えられ、山岳信仰の対象として崇められてきた。山頂には白(しら)磐(いわ)神社(奥の院)が祀(まつ)られている。その南側の山麓に田代という戸数100あまりの小さな集落がある。田代には真新しい立派な小学校もあったが、平成25年春に隣の白岩小学校の学区に吸収される形で廃校となっている。
その田代集落の北側、葉山に向かう道沿いに庚申水と呼ばれる水汲み場がある。傍らには自然石に彫られた素朴な庚申塔が二基、ひっそりと佇(たたず)んでいる。水場はコンクリート製の水槽で、側面から突き出た塩ビ管より勢いよく水が流れ出している。山奥の清水としてはいささか趣に欠けるが、休日には幾つもの空容器を積んだクルマがひっきりなしに訪れる村一番の人気スポットとなっている。この水、水源地は道のさらに北方、実沢(さねざわ)川(がわ)沿いを遡ること数㎞も先にある。川沿いの崖の途中に小さな洞があり、湧き出る水を集めて延々とパイプを這わせて引いているものだ。水源のある崖の上方は畑(はた)地区。既に集落としては廃れているがリクリエーション施設として建てられた葉山市民荘の前庭には長命水という湧き水があり、ハイカーや登山者の喉を潤す名所となっている。
この葉山に限らず、月山や鳥海山、延いては富士山などの火山には有名な湧水の地となっている箇所が幾つもある。ではなぜ火山周辺に良質な湧き水が多いのだろう。成層火山では火山噴出物が山頂から山肌を下りながら幾重にも累重する事になる。これらの噴出物は河川などによる淘汰作用を受けていないため粉じんから巨礫までさまざまな粒径の土砂が混合しており、見掛けほどは透水性が良くない。しかし地表面は礫や転石で覆われたガレ場となる事が多いため、降雨や雪解け水の多くは直ぐさま地下に浸透し、浅い層状となった土砂の間隙を流れ下ることになる。それらが地形や堆積土砂の流れによって山麓部の特定の箇所に集まり湧水地となったり流入河川のない湖沼の成因となっている。これらの湧水は浸透してからそれほど時間をおかず湧き出る地下水であり、欧州のとある名水のように、数千年の年を重ねた地下水とは全く異なる。日本の火山に浸み込んで数千年も経ったら間違いなく飲める水ではなくなっている。
田代集落は見晴らしの良い台地上に民家が並んでいる。近傍を河川が流れるが何れも深谷を穿(うが)っているため集落内は水が乏しく、古くから生活用水の確保にも苦労した歴史を持つ。庚申水も集落内で組合を作り、協同して数㎞先の湧水を引水して管理してきたものだ。かつて盛んだった60日毎に寝ずの勤行を行ったという民間信仰「庚申講」の集まりがその基となっているのかも知れない。ところで庚申は十干十二支では陽の金が重なる金気(カナケ)の日だそうだ。カナケの清水とはこれ如何に。
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第34話 ~深窓の令嬢~
5月上旬頃、わさび(山葵)は山間の沢沿いで小さな白い花をつける。いくらも日が射さない林の中、他に先駆けて艶やかなハート形の葉を精一杯広げ、僅かばかりの光を捕らえようとしている。花茎は中心に白い総状花を付けながら伸長し、小さな鞘(さや)に種を実らせる。もうしばらくすると他の草木に辺りが覆われ、わさびはすっかり藪に隠れてしまう。彼らにとって初夏前までの僅かな時間がその年の営みのすべてなのである。
旧温海町の山の中、急傾斜対策の地質調査のためにとある小さな集落に通った。山間の狭い谷底平野に十軒余の民家が軒を並べており、集落に接する崖に急傾斜対策を施す計画であった。その斜面に分け入って驚いた。草むらの中に貴重な天然わさびがそれこそ雑草の如く生えているではないか。わさびは冷涼な環境を好み粘土質や有機質の土壌を嫌い、直射日光と乾燥も苦手である。カビなどの菌類にも弱く、他の草々と混じって繁茂するなどあり得ない事なのだ。絶対に適さないはずの日なたの硬く乾いた道路敷に、逞しく育つ「ど根性わさび」の大株を見つけた時には我が目を疑った。病弱な深窓のご令嬢のはずが、いつしか豪快な肝っ玉母ちゃんに化けたかのようなそんな気がした。
ところがこの自生わさび、少し離れた別の谷筋には全く生えて無い。周囲の環境は集落周辺と似ているのだがわさびだけが唯の一本もない。地上の環境が同じならば地下が違うのか。部落周辺の地質は花崗岩、地表部はその風化土砂のマサ土でサラッとした白い砂だ。ああそうかマサ土か。伊豆や安曇野の清水が流れるわさび田のイメージが強くて思い違いをしていたようだ。彼らは殆ど肥料(栄養)分は要らない。僅かな光と適度な水分、酸素の豊富な土があればそれで良い。マサ土の元となる花崗岩はその大半が石英や長石などの白い粒でできており植物に吸収される養分を殆ど含んでいない。有色鉱物が少ないため風化に要する酸素の消費が少なく、通気性が良い。これに適度な雨でも降ってくれれば、わさびの好適な条件に近くなる。湧水の有る無しは絶対条件では無い。むしろ、余計な養分が増え酸素を浪費するためカナケ水なら無い方が良い。県内ではあまりマサ土地盤は無いが、花崗岩地帯の福島月舘町(阿武隈山地)や岩手の北上山地では平地の畑でわさび栽培が行われている。少し工夫すれば我々の家庭菜園やプランターでもわさび栽培ができそうだ。
我が家の畑の土手には、県内や福島各地から集めたわさびが毎年白い花をつける。その多くは山菜の直売所などで買い求め、根のしっかりした株を選んで植え付けたものだ。すべての自然環境を整えてやるのは難しいが、日照さえ気をつければそれなりには育ってくれる。若い花茎だけを摘んで軽く湯通しし密閉しておけば、ツンと爽やかな香気が生まれる。食卓に春の訪れを感じる、我が家のささやかな贅沢である。
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第33話 ~袂を分けた霊水~
赤川は幹線流路長70㎞,流域面積約860k㎡あまりの山形県で二番目に大きな河川である。朝日山脈の一峰、以東岳に源を発し、出羽三山からの流水を集めて北上し、地芝居歌舞伎で有名な酒田市黒森地区付近で庄内砂丘を横切り、直接日本海へと注いでいる。
今は治水対策も進み、それほど大きな水害を生じなくなった赤川であるが、かつては数年に一度は大氾濫を繰り返す暴れ川であった。昭和初期までの赤川は最上川河口で京田川と共に合流しており、赤川は最上川の支流のひとつに過ぎなかった。そのため豪雨の度に河口部で流水が横溢(おういつ)し、庄内平野でも特に標高の低い地帯を流れ下る赤川の下流域とその支流の大山川周辺は、慢性的な洪水の常襲地帯となっていた。比較的近代まで湿田としても耕作できない湿地帯が広く河口一帯に広がっていたものである。そこで時の政府は治水対策として280町歩もの圃場を取りつぶし、赤川の川幅を広げる工事を計画した。しかし農民が水田を取り上げられては生活が成り立たず地域経済が衰退する。たまたま酒田を訪れていた今の秋田県大曲出身の政治家、榊田(さかきだ)清兵衛は実状を目の当たりにし、この計画は無理があり却って地域の荒廃と農民の離散が進むと憂えた。そこで彼は東奔西走して国に強く働きかけ、ついに大正10年、庄内砂丘を横切る赤川放水路(新川)の開削工事が直轄事業として動き出す事になる。
赤川放水路の建設は大正10年から昭和11年まで、15年の歳月と延べ120万人の人工(にんく)、当時の最新式掘削機械を投入し行われた。放水路の延長は2.7㎞あまり、砂丘の最も高い部分は標高25mほどもあったと云う。掘削の一部は機械が使用されたとは言え、作業の大半は人力頼みで土砂の運搬はトロッコ馬車が用いられた。全国から作業員が大勢集まり、地元の黒森地区には宿屋や飲食店が建ち並び大層にぎわったと聞く。
ようやく完成した赤川放水路であったがこれだけでは暴れ川は治まらなかった。その後、八久和・荒沢・月山の各ダムの建設や河道の修正、築堤護岸工を進め、平成に入ってからようやく多少制御ができるようになってきたに過ぎない。くだんの赤川放水路も拡幅や沿岸部の保全工などが継続され、つい先頃の平成13年、ようやく完全な竣工に至ったのである。
「赤川」と言う名の川は全国で30あまりもあると云う。その多くはアイヌ語の川を意味する「ワッカ」の転訛であったり、鉄分が多くて赤黒く濁った水色から来ているそうだ。しかし山形赤川は霊峰の雪どけ水を集める清らかな流れであり、少なくとも赤黒い濁水では無い。諸説あるが、出羽三山を流れ下り流域に梵(ぼん)字(じ)川(がわ)などという修験道を連想させる名もある事より、神仏に供える「閼伽(あか)水(みず)」と関係しているという説が至極尤(もっと)もだと思う。赤川は霊験あらたかな神聖な流れなのである。
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第32話 ~大峠と八谷鉱山~ 連載3周年特別号
1.大峠の光と影
山形県米沢市と福島県喜多方市を結ぶ国道121号大峠道路。今は快適な山岳ハイウエイとなり、通年安心して走れるようになったが、今回お話しするのはその旧道、米沢市入田沢から喜多方市根小屋を通る旧「酷道」の物語である。
旧大峠隧道・福島側坑門 −− モルタルを塗り固めただけの補修あとが却って生々しい −−
私が入社してまもない40年ほども前、喜多方市のとある食品工場でさく井工事やその井戸を含む給排水設備のメンテナンスを行うため、頻繁に現地と行き来する必要があった。工場のすぐ隣を今は廃線となった国鉄・日中線が一日数本、ガタンゴトンとのどかに行き来していたそんな時分である。当社から喜多方に行くには福島と山形の県境を跨ぐ必要があるが最大の難所が大峠道路であった。パワステの無い日野の4トンユニック車に重いワンビット(パーカッション工法の掘削ツール)を積みこみ、腰高で少し傾いだ状態で通る峠道はなかなかにスリリングであった。国道とは名ばかりの未舗装のつづら折りが続く山道を黒煙を吐きながらよろよろと登るトラック。右側は山肌が迫り、路上に落石の岩片が転がっている。左側は怖気(おぞけ)が走るほどの深谷。はるか谷底に朽ちた車両のようなモノが見えた(ような気がした)。這々(ほうほう)の体(てい)で峠を登り切ると狭く補修あとだらけの大峠隧道をくぐる。すると道路の状況が一変する。山形県側は狭い砂利道が続いていたが福島県側はとりあえず舗装されている。しかしだ、なんだこれはと言うほどのヘアピンカーブの連続。その数80程もあるそうな。日光いろは坂も真っ青のグネグネ道である。まるで幼児が遊び半分で描いたようなつづら折りの連続。かつてはこの道路をバスが通行していたと言うのだから恐れ入る。
大峠道をバスが走るの図
ただこの大峠道路のバス路線。実際に定期便として活躍したかどうかは定かでない。写真のバスの列は開業当時のデモンストレーションのように思えてならない。見ているだけでクルマ酔いしそうだ。
・大峠道路のおこり
この旧大峠道路、歴史をひもとけば江戸時代より更に前の安土桃山時代、あの豊臣秀吉や独眼竜・伊達政宗の時代まで遡(さかのぼ)る。当時米沢を治めていた政宗は会津侵攻のために密かに道路を開発していた。今の米沢市綱木から桧原村に抜ける米沢-会津街道が重要街道として使われており、その桧原峠を挟んで米沢・伊達政宗と会津・蘆(あし)名(な)義広が攻防を繰り返していた。大峠道路で政宗は背後から虚を突いて会津に奇襲をかけようとしたのかも知れない。その後この大峠道路が実際に使われたかどうかは定かでないが、政宗は磐梯山麓の摺上ヶ原で蘆名勢を打破りついに会津を手中にする。その頃の政宗の所領は山形の置賜、福島の中通りとこの会津、宮城県の中南部の外、南陸奥や奥州の一部も実質的な支配下にあり、全国的にも有数の規模を誇った。しかし正宗の急成長を危惧した豊臣秀吉により会津が召し上げられ、その後、蒲生氏・上杉氏・加藤氏と会津の領主が次々と移り変わることになる。会津鶴ヶ城を今の姿に整備したとされる加藤嘉明は会津の歴史に汚点を残すこの大峠越えの道路を封鎖する。政宗が大峠を切り開いて僅か50年後の事である。主要街道を一本に絞り地域の平定を狙ったのかも知れない。その後、明治の初期まで実に250年もの間、大峠道路の名は歴史の表舞台から消えることになる。
・近代の大峠道路
大峠道路の歴史を再び動かしたのはあの三島通(みしまみち)庸(つね)である。三島は山形・福島・栃木の各県令を歴任し、その間、栗子隧道(萬世大路)や大峠を含む会津三方道路の整備など、東北地方の産業育成に努め「土木県令」の異名を取った。
鬼県令-三島通庸
一方その手腕は極めて強引で、建設費の大半を地元に負担させ、そのうえ建設自体も民間人の強制的な夫役(ぶやく)(労役を課す事)を求め、または代夫賃の徴収を強要するなど、地元の反発を招いた。福島県は早期に自由民権運動が広まった地で、三島は民権派が多数を占める県会を軽視・無視して専断的な政治を強行した。三島に従わぬ有力者を次々に投獄排除したと云う。これに激怒した会津地方の議員や農民数千名が決起し喜多方警察署周辺に詰めかけ,警察側は抜刀警官による弾圧でこれにこたえ逮捕者は約二千名にも及んだ。(喜多方事件・福島事件)大峠道路は三島の独断的施策によって建設されたが地元民73万人余りの文字通り血と汗と涙によって完成されたとも言える。鬼県令・三島通庸の名は特に福島にて悪名が高いが、道路や橋梁の建設により地域経済の礎を築いたのも確かであり、評価が二分されるところではある。曲折の上整備された大峠道路であるが、峠部には隧道が築かれ牛馬車や車両の通行できるようになり物資の流通が盛んに行われるようになった。
・強制移住させられた?部落
旧大峠道路の福島県側、標高九百m程のところに「沼ノ原」という集落があった。付近は旧大峠道路沿いで唯一、なだらかな南向きの緩斜面が広がる地区で、いわゆる地すべり地形のひとつである。
地形図に鳥居マークがただ一つポツンと描かれているだけで、現地には何も無い。民家はおろか田畑の跡もはっきりとしない状態で完全な廃村となっており今は鬱蒼とした杉林が広がっているとのこと。示した地図にはないが北西方向に大沼なる池沼があり、その上方に馬蹄形の明瞭な滑落崖が存在する。集落の中心の土地はこの地すべりの流れ出した土塊の中~下部に相当する。大峠道路の途中に集落ができるとすればここしかない、そんな地形である。この沼ノ原集落に限らず人里離れた山間部で周辺部の地形にそぐわないなだらかな土地が急に広がっている場合があるが、それらは地すべりの跡地である事が多い。水が豊富で土地も肥えているため集落や田畑の耕作地として利用された歴史を有する事が多いが、現在その大半は放棄されて荒れ地となっている。
旧国道と助け部落・沼ノ原
沼ノ原集落は今の大峠道路の開通直後、明治17年に8軒の民家が移り住んで集落を営んだとされている。実はこの集落、三島の施策により他の地区から強引に転入させられたのでは無いかと言われている。開通直後の大峠道路は今の米沢市入田沢から喜多方市根小屋まで30㎞ほども無人の山道が続く。峠の隧道付近は標高約一千m。環境が厳しく熊などの野獣も多い。徒歩での峠越えが主流であった当時、旅人のいざというときの助け屋敷として置かれたのがこの沼ノ原集落ではないかと言われている。だが時代が移り往来の手段が自動車に変わるとその存在意義は失われ、また、雪国の隔絶した高地という環境から農地としての生産性も低く、生活も困難であったのだろう。戦後、次第に集落が衰退し静かに元の原野へと戻っていった。
旧大峠道路は平成4年、新道の部分開通と共に通行止めとなり、平成24年国道指定から除外されて廃道となった。いろんな思惑のもと戦国乱世に生まれた道路が今、数百年の歴史に完全に幕を降ろしたのである。
2.八谷(やたに)鉱山
大峠で忘れてならないのが八谷鉱山である。八谷鉱山は大峠の米沢側、現大峠道路と旧道の分岐より1㎞ほど上ったところに入り口があった。
旧大峠道路にせり出すように設けられたホッパー
写真は大峠道路の山形県側のかなり上った位置ににある八谷鉱山の施設だ。ホッパーとはクラムシェルバケットで採掘された鉱石をつかみ取り、そのまま索道で運搬してダンプトラックに積み込む施設である。積み込まれた鉱石は宮城県の細川鉱山へと送られて処理・精錬されたとの記録がある。旧大峠道路を走る分にはこの八谷鉱山の施設はあまり目に入らない。遙か谷底に何かの建物の屋根が数個と何本かの作業用道路が見えるだけである。八谷鉱山は選鉱や精錬施設を持たないのでそれらの建物や廃鉱のズリ山が無い。また、従業員はすべて米沢市からバスで通勤していたため鉱山町が形成されなかった。なので付近に目立った鉱山遺跡が少ないのだ。旧大峠道路を走って唯一、鉱山の施設を目の当たりに出来るのがこのホッパーだ。砕石山や鉱山施設には必ずある設備であるが、この八谷鉱山のホッパー、私の記憶が正しければ大峠道路(旧国道121号線)のすぐ脇にあったように思う。何を言いたいかと言えばつまり、道路上(国道)にダンプを駐めないと積み込み作業が出来ないと言うことだ。いくら通行量が少ないとはいえ120番台の主要国道に駐めっぱなしにしないと作業が出来ないような施設をよく国が許可を出したものだなと。だがこれには許可を出した役所側と道路を利用する鉱山側のもちつもたれつの思惑があったような気がしてならない。あくまで私の勝手な憶測ではあるが、倒木や落石が多く手入れが行き届かない大峠道路、営業用にこの道路を繁用している八谷鉱山側に便宜を図ってその代わり通常の道路の手入れは鉱山側に押しつけるというような取引があったのではないかな。
八谷鉱山は三菱系の尾富鉱業により経営された金・銀・鉛・亜鉛・硫化鉄を産し、最盛期の昭和50年頃には年間10万トンもの鉱石が採掘され、従業員も二百名を上回るなど大いに繁栄した。だが私が喜多方に通うのに利用した昭和60年頃、鉱山の規模を縮小しつつあったのだろう。実際にこのホッパーが稼働している(車に鉱石を積み込んでいる)光景は、ついぞ目にする事ができなかった。(昭和63年閉山)
・鉱床学のさわり
地質コラムを標榜(ひょうぼう)する以上、鉱山(鉱床)についてもチョットだけふれたい。金銀をはじめとする有用な成分を通常の岩石より多く含んでいて、採掘されて利用されるものを鉱石と呼び、それらが地中に分布する塊を鉱床と称する。鉱床のでき方には大きく分けて三種類あるとされ、①火成鉱床,②熱水鉱床,③堆積鉱床に分かれる。ここでそれぞれに説明を加えると紙面がいくらあっても足りないし小難しくて読みたくないと思うので、日本の鉱床の大半を占める②熱水鉱床についてだけ簡単に述べたい。しばしお付き合いのほどを。
熱水鉱床は地中深くのマグマから分離した水が周辺の岩石の成分を溶かしながら移動し、温度が下がると共に特定の箇所で成分が沈殿・濃集したものだ。地下の高温のマグマ、実は数%の水分を含んでいることは案外知られていない。火山国日本の金属鉱山は一部を除きこの熱水鉱床に類すると考えて良い。マグマで一定条件以上の高温・高圧に加熱された水分は液体(水)でも気体(水蒸気)でも無い超臨界水と云う状態になる。
この超臨界水、有機溶剤も上回るほど溶解度(他の物質を溶け込ませる能力)が高く、周辺の鉱物をどんどん溶かし込む。大量に成分が溶け込んだ高温の水(熱水鉱液)は地表に向かって亀裂や岩石の隙間を伝って移動する。すると徐々に温度が低下すると共に溶解度も低下するために隙間の周辺に特定の鉱物が固体として分離するようになる。これが熱水鉱脈型と言われる鉱床で、金・銀・スズやタングステンなどはほとんどがこのタイプの鉱床から得られる。
黄銅鉱-熱水鉱脈の代表的な鉱石(金では無い)
外見的な特徴としては白い石英や水晶の隙間に結晶化した金属鉱物が析出しているものが多く、開口面が美しいのでよく飾り石として利用される。八谷鉱山もこれに類する鉱脈だ。
もう一つ、有名な鉱石として黒鉱がある。
黒鉱-結晶の細かい黒い石?
過去の拙稿にて日本列島が大陸から分離する際に東北~北陸の日本海側で激しい海底火山活動があったことを話した。黒鉱はその火山活動で生じた熱水鉱液が直接海水で冷却されて生じたとされ、日本海側の金属鉱山として操業していた鉱山の多くがこの鉱床を採掘していた。代表的な鉱山としては秋田県の花岡鉱山が有名どころだ。特定の成分が結晶化して濃集する鉱脈型鉱床と異なり黒い細粒なガラス質の鉱石であるが、金属成分を多量に含んでいるため重い。見た目はあんまりきれいでは無い。銅・鉛・亜鉛など、多くの成分がごっちゃに混じって含まれている。
また、日本の代表的な鉱山に近代日本を支えた岩手県の釜石鉱山(鉄)や奈良の東大寺の仏像に銅を供給したとされる山口県の長登(ながのぼり)銅山がある。付近には太古の珊瑚礁を成因とする石灰岩が存在し熱水に含まれるケイ酸(石英の成分)がこの石灰岩と反応してケイ灰岩に変化する。そこでケイ酸以外の成分が置き去りにされて凝集することにより鉱床が生じる。ケイ灰岩の生成過程をスカルン作用と云い、この鉱脈をスカルン鉱床と云う。
スルカン鉱床-ざくろ石の部分が鉱石
日本の鉱石は熱水型の以上、3タイプの何れかに分類される場合が多い。見て楽しいのはやはり熱水鉱脈型でキラキラ輝ききれいだ。私も子供の頃の宝物の1つとしてかけらを持っていたが、あれはどこに行ってしまったのか。
・鉱山の繁栄と負の遺産
八谷鉱山は前記の通り熱水鉱脈型の鉱床を採掘していた鉱山で、主要な事業が戦後から始まった県内でも最も遅くまで稼行された鉱山である。昭和の末期、海外の安い鉱物資源に押されて閉山となったが地下にはまだ手つかずの鉱脈が残ったままだと言う。八谷鉱山は鉱石を採掘するという本来の事業は終えたが、かつての坑道から重金属などの有害成分を含んだ鉱毒水が今もわき出ており、それを処理するための施設が未だに稼働している。同じ米沢にある松川(最上川の上流)も一見、青く澄んだきれいな流れであるが実は魚の住めない死の川である。その上流にはかつてイオウ鉱山が稼行していた。県内には外にも鉱山の鉱毒水が流れ込んで自然環境に支障を与えている河川が相当数ある。
話は変わるが、昨年北海道の長万部で古い資源調査用の井戸から地下水が轟音と共に吹き上げ、周辺住民は夜も眠れないと大騒ぎになった。あれも人間は何もできずただ右往左往して手をこまねいているだけだったが、地下の圧力が自然と下がって自噴が収まったようだ。
幕末のペリー来航の際、黒船四隻で夜も眠れずと幕府の無能ぶりが揶揄(やゆ)されたが、科学技術の進んだとされる現代でも地中の穴1つから出る水すら止められない。鉱山の鉱毒水も止められない。なんかやっていることは昔も今もそれほど変わっていない。それが現実なのだ。人間の業(ごう)により狂った自然は、元に戻るまでそれに倍旧する時間と労力を要求する事を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない。
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