さんぽみちのちしつColumn

第10話 ~時が止まった村~

2021年03月31日(水) 

 最上峡の中ほど、大河の右岸側に舟下りの名所・外川神社(仙人堂)が建立されている。それを携える小外川という集落がかつてここにあった。入社して数年目の冬、帰路を急ぐ車の助手席でふと河の向こうに視線を向けると、ぼんやり灯る明かりが一つ二つ。対岸から漏れ届く光に杉木立がおぼろに浮かび、背後の山々は闇に溶け込んでいた。その水墨画のような幽玄の世界に魅入られ、私はしばらくその情景が脳裏から離れなかった。小外川集落は最盛期24人の児童を擁した小学校まであったが、渡し舟でしか往来できない交通の不便さから次第に衰退し、平成10年頃に最後の住人がこの地を去っている。


 最上峡も朝日町五百川渓谷と同様、出羽山地の隆起帯に含まれ、最上川の浸食とせめぎあって険峻な深谷を形成している。国道・JRの交通網や僅かばかりの平地の大半は最上川の左岸側に集中しており、対する右岸側は岸辺から直に立ち上がる急崖だらけで通じる道は一本も無い。最上峡には殆ど堆積平野がないが、この小外川集落付近には比較的大きな3本の支流が流れ込んでいるため低平な開析段丘が形成されている。また急崖の上方の山稜部は尾根を挟んで左右の勾配が異なるケスタ地形と呼ばれる特有の尾根筋が連なっている。これは最上川に直交する幾つもの断層線と草薙層(黒色泥岩)の堆積面(層理)の傾きによるものである。尾根と尾根の間の谷間が急崖の上方に並ぶため、降雨後には最上峡四十八滝とも呼ばれる大小幾つもの滝が現れ、あたりは荘厳な雰囲気を醸し出す。


 小外川集落はその昔、最上川の舟運のために、事故の救難や氾濫時の避難所として設けられた川役所が起源であるという。義経が弁慶と共に奥州藤原京を目指して最上川を遡行したという伝説や、前九年の役で八幡太郎義家がこの地に楯を築いたとか、後年、芭蕉が詠んだ名句「五月雨を集めてはやし最上川」の舞台になった(と言われている)ことなど、この小さな村は歴史のページに度々登場してきた。悠久の時を経て最上川は今も変わらず滔々(とうとう)と流れるが、外界から近くて遠く隔絶したこの地に人々が刻んできた史実は、もうこれ以上紡(つむ)がれることはないだろう。

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