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第44話 ~黒ぼく土とスイカ~

 「黒ぼく」と呼ばれる土がある。黒くてほくほくとした軽い土で、山形県では村山市の北部から大石田・尾花沢市周辺、つまりスイカの名産地♪に多く分布する土壌である。火山灰を起源とし、その風化土に腐植質の有機物が強く結びついたものとされる。日本では、国土の約30%がこの黒ぼく土壌であり、柔らかく耕しやすいことより広く畑や果樹園、牧草地等として利用されている。ただし、世界的には全土壌の1%にも満たず、実はかなり珍しい土なのだそうだ。
 
 この黒ぼく土、黒々としていかにも栄養満点の素晴らしい土のように見える。実際、農産物の直販サイトなどでも「栄養豊富な黒ぼく土で作られた」と謳(うた)っているところが少なくない。植物が育つ上で重要な三大要素と云えば、窒素N・リン酸P・カリKであるが、この黒ぼく土、リン酸を吸収して固定化(植物に吸収できない化合物化)してしまう困った特性がある。リン酸は花と実の養分とされ、不足すると実がつきにくくなるほか、初期生育が遅れ根張りが悪くなる、葉が小型化し色が浅くなり光合成の能力が低下するなど、植物にとって重篤な障害が生じる。火山灰には、成分としてアルミニウムが多量に含まれている。アルミは、酸性の環境で溶け出してリン酸と結合し、水に溶けないリン酸アルミニウムを作り出す。殊に本県の北村山地区に分布するものは、非アロフェン質黒ぼく土と呼ばれるタイプで、降雨の浸透により含まれるカルシウム(石灰)やマグネシウム(苦土)分が溶脱しやすく、これが少なくなると土は強酸性となり、ますますアルミ分が溶け出しリン酸を奪い取るという負の連鎖を生じる。黒ぼくには、通気性や保水性が良好で病原菌が繁殖しにくいといった火山灰質土壌本来の特長はあるものの、それだけであの瑞々(みずみず)しい大きくて甘いスイカが出来るわけでは無い。適切な成分の組み合わせによる施肥や、地温を上げ病気の発生を抑制するトンネルマルチ栽培、細心の着果管理など、様々な工夫と努力の積み重ねによりあの夏の味覚が生み出されているのである。
 
 黒ぼく土には、植物ケイ酸体というイネ科植物由来の成分が多く含まれている。また、イネ科植物は草原でなければ繁茂出来ない。つまり黒ボク土が生成される期間、ずっと草原の環境で無ければこの土は生まれないのだ。降雨が多く温暖な日本では、草原には樹木が生え、必ず樹林地へと変化する。なので何世代もの間、自然に草原であり続ける事などあり得ない。そこで考えられるのは焼き畑の火入れである。古代の人々が農地を確保し、病害虫対策として、習慣的に焼き畑を行っていたのでは無いか。その行為が結果的に草原を維持することとなり、黒ぼく土を生成する環境を整えた。つまり黒ぼく土は、古代日本人の営みにより生み出されたものだというそんな説が今、最も有力なのだそうだ。

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第43話 ~幻の左荒線~

 山形県のほぼ中央部を占める白鷹山とその周辺山地。かつてこの山地をぐるっと一回りする内陸環状鉄道の計画があった。山形から寒河江を経て左沢に至る左沢線と、赤湯駅から荒砥へと至る山形鉄道フラワー長井線は、行ったっきりの行き止まり路線(こういうのを盲腸線と言うらしい)となっている。大正中期にこれらが全線開通した直後、引き続き左沢から荒砥間「左荒線」の建設が熱望され、何度も県から国へと請願書が出されている。その文面は、おおむね次の通りであった。(意訳)「本地域には朝日山地の豊富な木材と石材があり、また、沿線地域は養蚕が盛んでその織布も潤沢である。しかし、交通網が貧弱で思うように流通が伸びない。よって、左荒線の整備によりその問題を解決すると共に、仙台~山形~新潟への陸羽横断線が実現でき、国策として非常に利が大きい。」そしてついに、昭和15年完成として整備計画が可決し、一気に左荒線が現実味を帯びてくる。

 ところが丁度その頃、国際情勢が緊張度を増してくる。昭和12年の盧溝橋(ろこうきょう)事件を発端とする日中戦争が開始され、日本はそのまま第二次世界大戦へとなだれ込んでゆく。一旦は決まった左荒線の計画も棚上げとなり、戦後の復興期においても対応が後回しとなってしまう。昭和30年代以降、モータリゼーションの台頭と共に活動が次第に下火となり、左沢線・長井線も利用客が減少し、昭和63年に長井線が第三セクターに移管される。そしてついに平成8年、期成同盟会も解散し、百年越しの左荒線の構想は夢へと潰(つい)えたのである。

 ところで仮に左荒線が実現していたとすれば、鉄路の沿線や駅名はどのようになっていただろうか。私が地形図とにらめっこした左荒(妄想)線は次のようになった。

(大江町)左沢駅→本郷駅→(月布川橋梁)→(朝日町)大谷駅→(眼鏡橋梁・最上川)→和合駅→りんご温泉駅→宮宿駅→(五百川橋梁・最上川)→常盤駅→(暖日橋梁・最上川)→(杉山トンネル)→(白鷹町)大瀬駅→(大森山トンネル)→下山あゆ茶屋駅→黒滝駅→荒砥駅

 途中、上郷ダムからあゆ茶屋の間については、地質的に脆弱で川岸が狭いため線路を通せず、長い2本のトンネルで連絡する必要がある。中間の大瀬集落は小村であるが土地は広いためトンネルの中継駅として重要である。また、黒滝駅は黒滝橋の対岸側にも大きな集落があり、集客を見込める。などなど・・。高低差や地形より線路や停車駅の位置をあれこれ考えたり、断層の位置や地層の状態よりトンネルのルートを検討したり。また、実際に左荒線の列車に乗った場合の車窓からの眺めを想像したりとか。業務で得た知識やスキルが、架空の線路をより明瞭に、現実味を帯びて見せてくれる。こういう無稽(むけい)のイメージ遊びも、また一つの男の夢(ろまん)じゃないだろうか。

 

 

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第42話 ~五百川渓谷の今昔~ 連載4周年特別号

 

 山形県の中央部、白鷹町菖蒲(しょうぶ)から大江町左沢(あてらざわ)間の最上川を「五百川(いもがわ)渓谷」と呼ぶ。当地は、置賜(長井)盆地と山形盆地とを繋ぐ河川の狭隘部で、地質的にも歴史的にも数々のトピックスがある。身近な最上川のあまり知られていないトリビアをひもといてみよう。

 

1.黒滝とつぶて石


 「黒滝」は、白鷹町菖蒲地区の最上川本流にあった岩場であり、江戸時代初期に開削されて現在は存在しない。国道287号線より分かれて置賜三十三観音の27番、高岡観音を擁する高岡地区に渡る橋梁に「黒滝橋」の名が残る。

▲黒滝橋下流-つぶて岩とうねる岩盤

 

 写真は、濃緑の樹木が茂り秋雨前線が活発になる前の頃か、渇水期で川底があらわになり、その様子がつぶさに見てとれる。川底の右岸側は、ほぼ平らな岩盤面が広がり、巨石「つぶて石」がポツンと立っている。中央の瀬を挟んだ左岸側や奥(下流側)には、流れと並行だったり斜交したりと岩盤の断面(層理)がうねるように続いている。つぶて石は、白鷹町の史跡にも指定されており、高さ3.5m,重量は50tほどと言われている。この石、鎌倉時代の豪傑・朝比奈義秀が大朝日岳のてっぺんから傍らの石をむんずと掴んで左手でぶん投げたものだとか。石には朝比奈の掴んだ指跡がくっきりと残っているそうな。さらに、思いのほか手前に落ちたと感じた彼は、別の石を今度は右手で放り投げたところ、白鷹山をはるかに越えて今の山形市まで飛んでいったとかいう、荒唐無稽な与太話が伝えられている。さらに丁寧なことに、山形市門伝に「つぶて」(礫石)なる地区が現にあり、朝比奈が投げたという巨石が祀られている。但し、山形市に伝わる巨石伝説は白鷹町のそれとは微妙に話の筋が異なっており、興味深い。

 川底にウネウネと曲線を描く岩盤は、本道寺層と呼ばれる泥岩である。本道寺層は、今から1300万年ほど前、日本列島の大半が海に没し深海の環境であった時代、ゆっくりと海底に沈降した泥が固まったものであり、広域に分布する岩盤としては、県内で最も古い堆積岩の一つである。堆積岩は、当初水平に土砂が積み重なって出来るが、時間を経る毎に、地殻運動の影響で、地層が傾動したり、うねるように波打ったり(褶曲)、千切れて段差(断層)を生じるようになる。こうして長い時間を経て変遷を繰り返した本道寺層は、最上川の急流で平坦に削り均されて、幾何学的とも言える鮮やかな地層の模様が浮かび上がったのである。地質的にはこのつぶて石のある黒滝やあゆ茶屋付近が最も古い地質で、その周辺は次第に新しい地層へと移り変わってゆく。

 

2.あゆ茶屋付近の最上川

 

 あゆ茶屋は、「道の駅白鷹ヤナ公園」の通称で白鷹町の下山地区にある、日本で最大級の常設のヤナ場が設置された観光施設である。一年を通じて様々な催し物が開かれ、特にGWの「ヤナ開き」と秋の「あゆ祭り」には大勢の観光客が訪れて活況を呈する。そのあゆ茶屋のヤナ場に降りる階段より、比較的水量の少ない時期なら写真のような風景を見ることが出来る。

▲ヤナ場奥の川底は横断方向の縞模様

 

 あゆ茶屋付近には、本道寺層がほぼ最上川に直行した方向に、また、上流側に緩く傾いて分布する。本道寺層の基となる「泥」は、土砂の供給があった当初は比較的粗い粒子が沈み、時間が経つと次第に細かな粒子へと移り変わる。いわゆる水の分級作用であり、これを幾千幾万回と繰り返すことにより、細かなウエハースのような地層が出来上がる。堆積岩の流水による浸食は、粒子の粗い部分から進みやすい。その良い例が宮崎県の名勝「鬼の洗濯板」だ。青島を囲むように広がる岩盤は、泥岩と砂岩が積み重なったものであり、日向灘の荒波で砂岩の部分が先に浸食されるため洗濯板のような奇景となった。あゆ茶屋付近の地層の模様も同じような原理で生じたものだ。

 ところであゆ茶屋の下の最上川、渇水期には河川水のほぼ全てがヤナ場に流れ込む。あゆにとっては死のロード、逃れるすべは無い。実はこのヤナ場、舟運のための河道掘削跡の深みを利用して設けられている。舟運に燃えた昔人のお陰で今のあゆ茶屋が成り立っているのだ。

 

3.西村久左衛門の執念


 江戸時代初期、最上義光が碁点・隼・三ヶ瀬の三難所の掘削により山形から酒田までの舟路を開き、舟運により山形城下は大層栄えた。一方、米の輸送にも苦労している米沢藩に対して、京の商人・西村久左衛門は、船が通れない黒滝の難所を開削すれば米沢から酒田までの水路が開け、物流が盛んになり、藩の利益は莫大なものになると進言した。しかし当時の米沢藩は財政難を理由にこれを断わり、結局、独力で河川整備を行うこととなる。元禄5年、西村は荒砥から最上領長崎(現中山町)までの川筋普請を願い出、五百川渓谷の河道整備が行われる事となった。

▲佐野原の舟道開削跡 – 全て人力掘削!

 

 工事は渇水期となった元禄6年6月から始められた。黒滝は、水面上に多くの岩が現れており、流水がそれらの岩にうち当たっては、あたかも滝のような音を響かせる勾配のある早瀬だったらしい。工事の現場には、櫓(やぐら)が建てられ、吊り上げた鉄錐を落として岩を砕く方法で通削を進めた。黒滝開削のほかに左沢までの五百川渓谷も整備し、全長はおよそ30㎞。同様の遺構としては日本最長を誇る。完成したのは翌年9月。しかし人力のみで冬季を含んで一年強の年月で完成とはあまりに速い。ある研究者は、どうも10年ほども前から実際の施工は行われていたらしいと分析している。また、舟道開削が完了した直後、西村は置賜米の運搬を一手に請け負ったそうな。綿密に商売の網を仕掛けていた京の大店(おおだな)・西村久左衛門、かなりしたたかな古狸のようだ。

 

4.五百川渓谷の川岸は不安定

 

 五百川渓谷がある一帯は、白鷹山や月山などと同じ「出羽山地」に含まれる。この出羽山地、今も僅かずつだが隆起運動が続いている。一方、最上川は流域を少しずつ浸食しながら流れ下るのだが、五百川渓谷では隆起運動と浸食のせめぎ合いにより、十分な時間を採れずに流路だけが深くなる。周辺の地質は比較的軟らかな堆積岩。結果、脆弱な地質で急勾配の川岸が出来上がる事となる。なので五百川渓谷の川岸は、斜面の安定性が担保できずに簡単に崩れる。あっちで地すべり、こっちで崖崩れと、年がら年中どこかで工事が行われている。

▲大平橋より上流左岸側、地すべり対策跡

 十数年前、朝日町の最も南側の集落「今(こん)平(ぺい)」の対岸側、白鷹町大瀬地内で大規模な地すべりが発生し、半年ほど国道が閉鎖される事態となった。現地は、最上川の川岸が長大斜面となっている部分で、国道はその中ほどに無理矢理小段を造って通している。主要幹線道路の一つと言うことで県は急遽対策工事に着手した。地すべり対策は通常、地下水を抜いたり盛土や切土で斜面を緩くしたり、杭を打つなど様々な工法を組み合わせて行われる。しかし当地は場所が狭隘で、大型の機械が必要なものや地形を大きく改変するような工法が使えず、何より早期の国道復旧が命題とされていた。そこで工費という面では不利となるが、数百本ものグランドアンカーを地中に打ち込み、その緊張力で地表の変位を縫い止めるという力業(ちからわざ)で対策を行っている。その後現在まで、とりあえず斜面は安定を保っているようには見える。しかしながら地形的には、どう考えても国道を通すに適した場所では無く、それほど遠くない将来、トンネルや大規模な堀割など、根本的な対策が必要となるだろう。

 

5.上郷ダム

 

 上郷ダムは、堤高23.5mの重力式コンクリートダムで東北電力が管理する発電用ダムである。戦後高度成長期の電力需要をまかなうため、昭和36年に建設に着手、翌37年に完成している。鉄筋コンクリートの耐久性(寿命)が50~100年と言われている中、かなりのお爺ちゃんと言える。また、最上川本流にある唯一のダムでもある。

 ダムは完成後、上流から流入する土砂によって年々埋積してゆく。上郷ダムのダム湖は総貯水容量766万㎥に対し、令和2年時点にて有効貯水容量は271万㎥(総貯水量の35%)に過ぎない。ダム本来の機能の一つ、大雨時に一時的に河川水を溜めて流水を制御し、下流域の洪水を防止するという「治水作用」の能力は、この有効貯水率に比例する。だが、現状ではその七割方、機能が低下している状態と言える。どうりで近年、雨が降るとすぐに上郷ダムの放水のサイレンが鳴る訳だ。実際には殆ど貯水マージンが無いのではと危惧している。(発電用ダムという性格上、ダム湖の運用水位を高めに保持しなければならず、緊急時の貯水マージン・治水能力が小さくならざるを得ないと云う側面もある)

▲上郷ダムの俯瞰写真と堆積土砂

 上郷ダムは、上流から供給される土砂のほか、朝日山脈から注ぎ込む朝日川が、直接ダム湖へ大量の土砂を吐き出し、浅瀬を作り出している。また、ダムがあるとダム湖だけで無くかなり上流側まで川底が浅く、流れが緩やかとなる。

 川がよどむと増えるカワザイ(似(に)鯉(ごい))が渓谷の河面を悠々と泳ぐ姿を見ると、本来の自然とは何か違うような漠然とした不安感を覚えるのは私だけであろうか。ちなみにこのカワザイ、鯉の仲間なのだが山形では下魚とされ誰も捕らない。体長も50~60㎝、中には1m近くの個体もおり鳥も近寄らない。魚としては生態系の頂点と言え、どんどん増える厄介者である。

 

6.最上川のおき土産


 上郷ダムより下流側の最上川沿いには、段丘面が一気に広がり、名産のりんごをはじめとする耕作地が続く。朝日町の北東端にある大谷地区も例に漏れず広い段丘面となっているが、ここではごく平坦な水田が連なり、軟弱な湿地帯も存在する。

 

▲大谷地区は旧河道地帯

 

 大谷地区には「秋葉山」という孤立丘があるが、これはかつて東側の川向かいにある山稜と半島状に続いていたらしい。最上川はこれを迂回するように西に大きく弧を描くように蛇行して流れ、しかも出口が地すべり崩壊などで狭く、河川水が滞留したため、山中にもかかわらず軟弱な湿地が発達したようだ。その後最上川が秋葉山の山列の一部を洗掘し、流れがショートカットして河道が大きく東に遷移した。ちなみに東側の山列の浸食面は、川岸が最大150mもの高さまで急角度で立ち上がっており、明神断崖(通称:用のハゲ)と呼ばれる景勝地となっている。この崖の地質は浅い海の時代(数百万年前)に生成した軟質なシルト岩などの堆積岩である。大谷地区の旧最上川河道の高さと、現在の最上川の高さは30m以上もの開きがあるが、岩質が軟らかであったため、最上川が急速に洗掘して流路が大きく低下したのだろう。

 最上川によるこのようなショートカット地形は、五百川渓谷に限らず数多く存在する。朝日町の中心地・宮宿地区もそうであるし、下流の大江町や寒河江市街地に接した地区にも何ヶ所も見いだせる。古い地形図で円弧状に繋がる水田地帯や滑らかな曲線を描く小崖を見つけると、数千年前の川の流れを辿ることができてうれしくなる。自分が生まれ育ったこの地の移り変わりに思いを馳せる事は楽しいし、これが単なる私の爺むさい興味で無いと思いたい。

 

-後書きに代えて


 本稿の原案は、来期入社を控えた皆さんへの講演資料が基となっている。本来、第4回を迎えるさんぽ道特別号については、別の話題を予告していた。だが一部社員の方より、くだんの講演内容をちゃんと知りたかったと言う声や、私自身、せっかく集めた資料をこのまま破棄するのは勿体ないという気持ちもあり、大幅に加筆・加図して再登場の運びとなった。世の中3R運動を推進しなければならない。資源の少ない日本、省資源(Reduce)・再利用(Reuse)・再資源化(Recycle)の精神が大切である。とかなんとか云々(うんぬん)・・・
まぁ、本音は忙しくてじっくりまとめる余裕がなかっただけでして。平にご容赦を。次回こそは、辰子姫と玉川毒水に挑みたい。

 

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第41話 ~刻まれた大地震の記憶~

 山形市の郊外、西側に膨らんで流れる須川のさらに外側、玉虫沼や県民の森などが広がる丘陵地群とに挟まれた地区を「山辺段丘」と呼ぶ。地名的には山辺町山辺から山形市村木沢・門伝・本沢と連なるエリアだ。地形は丘陵地の山すそに、半ば食い込むように広がる小規模な平地~緩傾斜地の集まりとなっている。丘陵地は白鷹山を頂とする隆起地形で、月山や鳥海山などと同じ出羽山地に含まれる。また富神山や大森山など、特徴的な三角形に尖った山々は、古い時代に活動した貫入岩と呼ばれる一種の火山である。


 山辺段丘では、丘陵地から発して須川に注ぐ数多くの小河川が地区を横断して流れている。その個々に小規模な扇状地が造られ、隣接する河川と折り重なるように連続した堆積平野を形作っている。一般には、河川が生成した堆積地が再び河川の流れで浸食されて残った地形を段丘と呼ぶ。当地の場合、多くの河川が相互に影響しあったため、全体的には複合開析扇状地と呼ばれる地形となっており、これも段丘の一つの形態である。小河川毎に土砂の供給能力や堆積地の規模が異なるため、砂礫台地や多彩な扇状地、浸食谷及び湿地性の低地まで様々な地形が入り組んで分布している。


 この地区のもう一つの特長として断層の影響が挙げられる。当地には、県内最大の活動度を有する活断層(山形盆地西縁断層帯の山辺セグメント)が潜在している。その変位速度は1.4m/千年、活動する間隔は平均1.9千年だそうだ。また、将来活動確率は、向こう30年で2%と推定されている。これをアブナイと感じるかまだまだ大丈夫とみるのかは個人の判断だが、もし今度動いたら阪神淡路大震災級の直下型地震が発生する事になるらしい。


 今から130年ほど前、岐阜県で発生した日本最大級の内陸地震「濃尾地震」では、山間の水田を斜めに横切るように垂直変位6m、横ずれ4mもの断層崖を生じた。これは書籍や雑誌などで何度も取り上げられ、社会の教科書にも写真が載っていたので覚えがある方も多いだろう。くだんの山辺段丘の地形もよく見ると、地表勾配と直交して線状に延びる、おびただしい数の傾斜の急変点や段差・小崖などを見いだせる。その一つ一つが過去に発生した断層の変動によって生じた、言わば大地震の記録である。


 人間の一生など活断層の活動間隔から言えばほんの一瞬でしか無い。たびたび大地震が発生してきた三陸沖でさえ、東日本大震災ではろくな対策が取れなかったのだ。そして今後、科学技術がいくら発達したとしても、地震の発生を正確に予測することは難しいだろう。いつ発生するか分からない大地震を過度に恐れる必要はないし、その対策や備えも本当に有効かどうかは怪しいが、いつ来てもおかしくは無いという認識や覚悟は必要だろう。

 

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番外編 ~寒河江市の地下水~

南部小学校、中部小学校の4年生の総合的な学習の時間で、社長が地質と地下水について講演しました。その中から『寒河江市の地下水』についてご紹介します。

寒河江市は寒河江川と最上川に挟まれた土地で「段丘」や「扇状地」と呼ばれる川の流れで作られた地形です。
また、寒河江市には長岡山から高瀬山に続く地下の丘があります。
そのため、西側の豊富な地下水が東側に流れて行きません。
中部小学校もちょうどこの岩盤の上に建っています。

① 水を透さない岩盤の丘に接した寒河江市街地付近は、あまり地下水が豊富ではありません。でも地下の温度が上がりやすいので温泉が湧き出しやすい特徴もあります。

 

② 寒河江警察署付近には寒河江川の流れと同じ方向に流れる「伏流(ふくりゅう)水(すい)」と呼ばれる地下水があります。きれいでおいしい水のため、水道の水源としても利用されています。

 

③ 寒河江市立病院付近は「塩水(しおみず)」という地名です。地下深くに太古の海の水の成分が溜まっているため、その名の通りしょっぱい塩水が出る井戸があります。

 

④ 寒河江中央工業団地付近には大きな工場がたくさんあり、大量に地下水を汲み上げています。そのため将来、地下水がなくなるのではないかと心配されています。

⑤ 南部小学校を含む寒河江市南部地区と髙田地研のある東部地区は、寒河江川と最上川が影響し合ってできた「氾濫(はんらん)原(げん)」という土地です。地下水は比較的豊富ですが地下に川で流れてきた木の枝や葉っぱが溜まっていて、それが腐ることによりメタンガスが発生します。昔は、そのメタンガスを採取して燃料として利用したことがあります。このガスの採取井戸の事業が、髙田地研のはじまりです。

 

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第40話 ~山のいで湯はなぜ白い~

 奥羽本線、峠駅。米沢と福島間の板谷峠にあるこの駅は、かつてスイッチバックで分かれた引き込み線に駅舎があった。その近くに「峠の力餅」と記された小さな店舗がある。家屋は他に一軒も無い。峠駅を最寄り駅とする温泉旅館が2軒、山奥にあるだけだ。こんな人里離れた一軒家の店舗だが、今も老夫婦が餅屋を営んでいる。温泉の土産品として、また、上下合わせて1日6本だけの普通列車の乗客のために毎日、力餅を作っている。


 峠駅からおよそ8㎞、2時間以上も山道を登った先に姥(うば)湯(ゆ)温泉がある。ゆらゆらと不気味に揺れる吊橋を渡った先、斜面にへばりつくように建つ木造の建物は、旅館というより山小屋のイメージに近い。その先に、自然石で囲まれた露天風呂が設けられている。周囲は荒々しい岩肌が迫り、崖面から水蒸気が立ち昇る。頭上は遮るもののない濃紺の青空が迫る。まさに自然に抱かれた絶景の秘湯である。姥湯は、蔵王や吾妻高湯、乳頭温泉などと同じ火山性の酸性硫黄泉であり、乳白色の濁り湯に特有の湯香が漂う。遮るもののない大自然の中で裸になり湯に浸かると、限りない開放感と風景に没する卑小感を同時に感じる、形容しがたい独特の感覚を味わえる。

 ところで、硫黄泉には大きく分けて二種類あるのをご存じだろうか?一つは、この姥湯のように白濁した酸性硫黄泉で、硫黄泉と言えば誰しもがこのタイプを思い浮かべる、ザ・山のいで湯である。正式には「遊離硫化水素型」と言われるタイプの硫黄泉で、源泉から湧出した瞬間は無色透明であるが、空気中の酸素と反応して硫黄成分がコロイド化して析出し、白濁した湯となる。蔵王をはじめとして活火山の熱源から直接湧き出す温泉に多い。もう一つは単に「イオウ型」と呼ばれ、pHが中性~アルカリ性を示すもので、火山から遠く離れた平地に湧く事が多い。硫化水素やチオ硫酸などがイオン状態で溶け込んだもので湯色は、無色から黄色・薄緑色の入浴剤のような色を示すものなどさまざまである。含まれる硫黄分は、ある種の菌により有機物が地中で分解したもので、火山脈とは直接の関係はない。県内では舟唄温泉や湯チェリーなどが挙げられ、新潟の月岡温泉も同じ系統だ。

 これら硫黄泉では、白濁した「酸性硫黄泉」の方が刺激が強いようなイメージがあるが、実は平地に湧く「中性・アルカリ性」の温泉の方が体への負担が大きく、湯あたりもし易いのだという。
山形県は、思い立ってすぐに行ける近場に温泉入浴施設が必ずある。我々にとって当たり前でも、他県の人から見たらうらやましい環境なのだろう。今年の夏は猛暑で、とても温泉などという気分にはならなかったが、これからの秋冷の夜長や雪のちらつく風景に、湯の香が恋しくなる季節がすぐそこまで来ている。

 

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第39話 ~肘折温泉は活火山~

 一見、遊園地のアトラクションのようにも見える鉄柱群は、大蔵村の肘折温泉の入口にある肘折希望(のぞみ)大橋である。あの東日本大震災の翌年、2012年の春に発生した地滑りにより、国道から温泉街におりる県道が崩落し使えなくなったため、県は急遽、新たなアクセス道路の建設に着手した。新たな道路は複雑なδ形軌道の鋼製ラーメン桟道橋で、このタイプの橋梁としては日本最大級の規模を誇る。鋼製ラーメン桟橋は、盛土の出来ない山岳道路などで多用されている方式で、多数の鋼管杭を地盤に打ち込み、そのまま上方へ橋脚を立ち上げ、鋼製の床板を載せて剛結するものだ。橋梁工事としては資材費が高くつくが、構造が単純で施工が簡単、何より工期が短いという特長がある。この希望大橋も24時間の突貫工事の末、着工より4ヶ月足らずで仮共用まで漕ぎつけている。


 さて本題の肘折カルデラであるが、今から1万年ほど前の比較的短い期間に活動した火山である。山体は無く火口のみだが、気象庁の分類上では歴(れっき)とした活火山だ。直径2㎞程度の小盆地で、周辺8㎞程度の範囲にその噴出物が載った火砕流台地が展開している。カルデラ内では現在も地熱活動が活発であり、カルデラ中央部に黄金温泉、東端に肘折温泉がある。肘折温泉の源泉の多くは高温の沸騰泉で、川から水を引いて井内に注入し温泉水?を回収しているのだという。また、かつて近傍で、高温岩体発電のための大深度試掘調査が行われたことがある。250℃を越える高温が確認されたが、得られるエネルギー量が期待ほど多くなく、その後開発が進んでいない。


 肘折火山の岩石は流紋岩~デイサイト質で、極めて粘っこい溶岩だった。このタイプの火山は爆発的な激しい噴火活動をすることが知られている。ここでチョット1万年前にタイムスリップしてみよう。月山北東麓の何もない丘陵地に、突如として小さな火山噴火活動が始まった。溶岩ドームの成長とその崩壊(火砕流)を繰り返し、火山は徐々に拡大していく。あるとき、火山内部の高熱と多量の浸透水により巨大な水蒸気爆発を生じ、山体のあらかたが吹き飛ぶ。その後、火山活動の沈静化と共に山体跡が200~300mも沈降し、陥没カルデラとなった。火山活動後しばらくは、カルデラ湖の環境となり、流れ込む銅山川によりカルデラ内の埋積が行われ、同時に周辺のカルデラ壁や火砕流台地の下刻浸食が進んだ。その結果、湖は干上がり、現在のような盆地地形が生まれたものと想像する。


 当地に湧き出す湯を見つけた老僧(地蔵権現)が折れた肘を癒やしてから1200年あまり、雪深い山里のひなびた温泉街は今も人々の旅情をかき立てる。かつては体の傷や疲れを治すために、近郷近在の人々でにぎわった湯治場の湯。今は現代社会に荒み、日常生活に疲れた人々の心を癒やす新たな効能に、人々が惹(ひ)かれ訪れる。

 

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第38話 ~寒河江川慕情~

 寒河江市の中心市街地に隣接した長岡山は、東北最大級のつつじ園や700本もの桜が咲き誇る市民の憩いと集いの場として、また観光スポットとして整備された総合公園でもある。その長岡山と北方の慈恩寺・醍醐(だいご)地区との間を寒河江川が横切り、そのまま河北町との境を辿(たど)るように東流し、山形盆地中央を北上する最上川へと向かっている。


 河川が平野部に開口した部分に広がる半円形の堆積地を扇状地とよび、扇状地を含む平地が河川によって浸食された後、残った台地の部分を段丘という。現在、長岡山の西側に広がる寒河江中央工業団地周辺から寒河江市街地にかけてが「寒河江段丘」に、また、寒河江川周辺とその北側(河北町側)が「寒河江川扇状地」に分類されている。おそらく数万年前の寒河江川は図の①のように、長岡山の西側、平野山との間を流れていたと見られる。であれば、現在の長岡山から北側の慈恩寺間には、堤防となる丘陵地の尾根が続いていたことになる。そして中央工業団地付近から下流側に扇状地を造り、周辺に堅固な地盤と豊富な地下水を包蔵する堆積層をもたらしたのである。


 あるとき、この細長い尾根(堤防)の一部が決壊し、図の②のように、河川が東側へと流れを変えた。尾根が途切れた要因に、地質と断層が関わっていたのは間違いない。この界隈は山形盆地の西側を限る山形盆地断層帯と、長井小盆地より北上する断層帯の端部が交わる地区にあたり、縦横無尽に断層が発達している。おそらくそれらの断層の1つが尾根を寸断する「切れ目」を入れたのだろう。また、現在の長岡山の一部には、著しく固結が低く粒子の粗い砂岩が分布する。断層により切れ目の入った部分が、このように脆弱な岩であったならば、流水によりたちまち侵食が進むことは想像に難くない。こうして丘陵を乗り越えた寒河江川は、かつて湖沼や湿地帯の広がっていたであろう未開の地を新たな流域として、洋々と流れ出していったのだ。その結果、長岡山は孤立した丘陵地へと姿を変え、そして旧来の扇状地は最上川の氾濫流により南側から浸食を受け、加えて活断層による変位を被(こうむ)って段丘となった。こうして現在の寒河江市街地周辺の地形の原型が出来上がったのである。

 寒河江市周辺は、河川の変遷のほか断層の動きにより地形や地質の変化が非常に大きい。岩盤である長岡山と平野山に挟まれた中央工業団地には、実に200mにも及ぶ河成砂利層が堆積していること、市街地の真下に山形盆地と出羽山地の境となる断層崖が埋もれていることなど、地質技術者として興味が尽きない。
1300年の歴史を刻む本山慈恩寺の山の頂に、山王台公園なる見晴台がある。寒河江地区を含めた山形盆地南部一帯が見渡せる素晴らしい眺望に、太古の寒河江川の流れと、昔日の貴女の面影が見えた、そんな気がした。~♪寒河江がわあ♪~

 

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第37話 ~あんた、どこのγ線やねん?~

 放射能と放射線、改めて聞かれると、ん?となる。そもそも放射線とは、原子が崩壊して生じた高エネルギーの粒子の流れであったり、ごく波長の短い電磁波であったりする。その放射線を出すトリチウムやセシウムなどを放射性物質、それから出る放射線の強さの事を放射能と言うんだとか。まぁ、日焼けする紫外線の親戚とでも思えば良い。

 十数年前、とある業務で簡易の放射線計を手に入れた。これは本来、自然の環境放射線(γ線)を測定するものだ。私たちの身の回りには幾ばくかのγ線が常に飛び交っている。それは大地に含まれる微量の放射性物質からだったり、地球に降り注ぐ宇宙線の影響だったりする。γ線の線量は環境条件によって異なり、地盤で云えば断層の近くで強くなる。なのでこの測定器を持って野山を歩けば「なんかこの辺に断層がありそうだ」という目安が得られる。断層と言えば温泉。過疎化が進む山里に豊富な湯が湧けばじっちゃんばあちゃん大喜び。地域興しの原動力ともなる。そのお手伝いができれば私も(会社も)嬉しいな。そんな事を夢見るかつての紅顔の美少年?がいたとかいないとか。

 ところがこれを手にしてまもなく、あの東日本大震災(福島第1原発事故)が発生し、大量の放射性物質がまき散らされた。弊社のある山形県寒河江市までにはその飛散物質は到達していないと言うが、実際は野外のγ線レベルが従前の1.52倍に跳ね上がっていた。また会社回りの側溝掃除を行った際、常時の10倍相当もの高い線量を示し驚愕した事を覚えている。現在でも水田の水路や湿地などで時折かなり高い値を示すことがあり、まだまだ事故の影響は残っている。

 γ線は起因の物質によってその特性が異なる。放射能探査に用いるシンチレーションアナライザーとかいう装置であれば、原発で飛散した物質のものか、それとも断層を起因とするものかの区別ができる。だが簡易測定器は、小型で気軽に持ち歩ける軽便さが身上だ。その表示値はγ線の総量を示すので、何が由来のγ線なのかなどサッパリ判らない。本当の放射能探査の装置など、とてもポケットに入れて持ち歩けるような大きさで無いし、気軽に玩具にして良いようなシロモノでもない。こうして私の思惑は詰(つ)んだ。夢の構想は儚(はかな)く砕け散ったのだ。こんな原発事故の被害者もいるのだよ東電さん。

 震災直後、この簡易測定器を公共機関に貸し出すように要請された。原発付近から避難してきた方々の衣服や持ち物の放射線を計るそうな。放射線計には違いないし非常事態でもあるので、余計なことは言わずに渡した。でも本来、衣服やモノの表面にくっついた物質の放射線でアブナイのはα線とβ線で、それを計測するのはかのガイガーカウンター(GM測定器)なんだよなぁ。貸し出した測定器はγ線計であってα線やβ線には反応しないのよ。まぁ今更なんだけどね。

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第36話 ~最上川地下に潜る~

 山形県のほぼ中央部、葉山の東麓と村山市の河島山丘陵とに挟まれて、長島という小さな集落がある。地区は西側に長細く突き出た半島状を呈し、周囲を最上川がぐるりと取り巻き流れる。近くには最上川舟唄にもある三難所の内、三ヶ瀬(みかのせ)と隼(はやぶさ)があり白波を立てる早瀬となっている。この辺りの最上川は川幅が狭く両岸が切り立った浸食崖となっており、大淀狭窄部とも呼ばれる。地質は古い時代の凝灰岩で、三難所ではそれが川底に露岩し、舟運の障害となっていた。


 令和2年7月28日、山形県を集中豪雨が襲った。特に置賜地域で降水量が多く、橋梁の損壊など甚大な被害を被った。しかしそれほど降雨がなかった下流の村山地域でも最上川が氾濫し、随所で浸水被害を生じたのである。その要因の一つがこの大淀狭窄部の流下能力にあったと言う。河川は降雨により水かさを増すが、その分流速が速くなれば問題は少ない。しかしこの地区は川底が凸凹した岩床となっており、加えて流路が穿入(せんにゅう)蛇行を繰り返している。河床が凸凹していれば流れの抵抗が大きく、蛇行すれば転流の度に流水は勢いを失う。よって水かさが増えても氾濫水の流速が上がらないので、大雨が降るとこの付近がボトルネックとなり、殊(こと)更(さら)に水位が高くなってしまうのだ。


 これに対し国と県では大胆な治水対策を行おうとしている。それは長島地区の半島状の根元に分水(捷(しょう)水(すい))路を設け、河道をショートカットして下流側に直接放水してしまおうというものだ。捷水路は通常、大規模な堀割とする事が多いが、当地の場合、上部がそれなりに高さのある丘陵地であるため、地下トンネル方式が予定されている。しかも設置高さや水門の制御により、洪水時のみ通水するような仕組みを検討しているようだ。これにより施工後も三ヶ瀬や隼が干上がることなく、今の景観が大して変わらないと言う。他に類を見ない捷水トンネルは設計技術者の腕の見せどころ。どんな施設になるか刮目して待つべし。


 その昔、山形盆地には藻ヶ湖(もがうみ)と云う巨大な湖があり、寒河江市西根と対岸の東根市貴船を連絡する船便があったそうな。藻ヶ湖の湖面の高さは標高90m付近らしいとのこと。くだんの村山市長島地区の古い河道跡(国道脇の水田)もほぼ90m。なのでこの水田面を最上川が流れていた時分は上流側に湖があったことだろう。だがこの高台を最上川が流れていたのは、少なくとも数千年前。とても船便がどうのと言える年代じゃない。思うに、かつては寒河江川も東根の白水川も流路が今とは違っただろうし、近くに船着き場があっても何も不思議は無い。これと太古の山形湖伝説がごっちゃになって今に伝わったのかなと。真面目に研究されている方には申し訳ないが、藻ヶ湖のお話しは古(いにしえ)のロマン、物語りの一つとして気軽に楽しめば良いのではないかな。

 

 

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