さんぽみちのちしつColumn

第15話 ~織女は白竜の夢を見る~

 写真は南陽市の白竜湖である。面積が約1平方キロメートル、水深が最大1m余とかなり貧相であるが、自然湖沼としては山形県で最大である。湖の周辺は大谷地と呼ばれ、古来、入れば腰までぬかるむ「ひどろ田」で、特に湖の東側は萱(カヤ)場とされる未開の湿原が広がっていた。明治期以降、度重なる圃場整備と大規模な排水路網の建設により、現在では整然とした水田が広がる穀倉地帯へと変貌している。

 白竜湖を含む大谷地地区は置賜盆地の北東隅に位置し、白鷹山地から南下する吉野川と高畠町より西流する屋代川の自然堤防によって出口を閉塞された低湿地帯である。明治期には面積も今の2倍、水深も3m近くはあったとされている白竜湖だが、年々縮減の方向にあり早晩消滅するのではと危惧されている。特にかつての高度成長期の食料増産に伴い、圃場水源として無理な浚渫工事を行った結果、貴重な動植物の絶滅と共に毎年「ヒシ」(水草)の大繁茂を繰り返すようになった。それが腐敗して湖底に堆積することにより却って湖の命脈を縮める事となったことは人間の愚かさとしか言えない。これは浚渫により湖底から富栄養化した泥が舞い上がり、加えて辺縁の水田より化学肥料を含んだ排水が大量に流れ込んだ事が大きな要因となっている。

 大谷地の北側半周は丘陵地(ぶどう畑)に囲まれており、浅いながら幾本もの沢地形が刻まれている。にも関わらず大谷地内は太古から変わらず続く低平な湿地帯であり、これは土砂の供給が極端に少なかったことをも意味している。沢があるのに土砂が供給されないのはなぜか?これは前回、大洞のU字谷の稿でも触れたが、周囲の緩斜面は風化に伴う自然崩落土砂「崖錐堆積物」の性格が強く、降雨があっても直ぐさま地盤に浸透するため土砂を押し流すような流れにならなかったのが要因である。そして浸透した地下水だけが湿地の底部から静かに湧き出すこととなる。(一部は、赤湯七水と呼ばれる湧き水となって人々の生活に利用されてきた)

 白竜湖の数ある伝説のなかに赤湯東正寺の若い僧侶に恋い焦がれた若い娘が、想いかなわず湖に身を投げてしまい、その魂が白竜となって天に昇ったという悲恋の物語がある。また、同じ南陽漆山地区にはあの「鶴の恩返し」の発祥の地のひとつとしての言い伝えが残っている。赤湯周辺にはこのような物悲しい結末の物語が幾つも口伝として語り継がれてきた。深さ1mの湖に巨大な白竜が潜んでいる訳はあるまいとか揶揄する向きはさておき、このような寓話が生まれた往時の人々の暮らしぶりが暗く貧しいものであったろうことは想像に難くなく、今不自由なく暮らせる我が身の幸せをありがたく思わねばバチが当たりそうだ。

 

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第14話 ~フィヨルド幻影~

私たちには馴染みが薄いが、氷河の流れで浸食された谷地形を「氷食谷」と言い、これが海に入って細長い湾となったものを「フィヨルド」と言う。スイスアルプスや北欧に多い地形でU字谷を特徴とする。

南陽市川樋に大洞(おおほら)と云う地区がある。当社で東北中央道関連の井戸を何本か掘削したあの大洞である。地区の背後は見事なU字谷となっており、谷の最奥に大洞山が聳える。谷底はなだらかな緩斜面となっており、多くはブドウ畑として利用されている。私が高校時代、上野に向かう特急やまびこの車窓からはじめてこの地形を見たとき、日本にあるまじき景色にしばし見とれ呆然とした。後日、友人たちに「あのU字谷は凄いよね!フィヨルドみたいだよね」と、興奮気味に話ししたものの、誰一人関心を持ってくれなかった無念さを今更ながら思い出す。でも高校生で地形を熱く語る私は、当時から変な奴だったのかもしれない。


北欧のU字谷は氷河で削られたものだが、この大洞の谷はどうやって出来たのだろう。まさかここに氷河があった訳では無い。ただ氷河期には関係している。辺りの地質は赤湯層という古い細粒凝灰岩・凝灰質泥岩が分布している。古い泥質の堆積岩で幾度もの氷河期を経ているとなると、岩盤は凍結融解をくり返し、静かに少しずつ破砕してゆく。これをスレーキングと言う。砕けた岩塊は山から崩落し麓に堆積する。そして大雨などによりごくたまに(それこそ数百年に一度のレベル)土石流のような流れで一気に地表が均される。幾星霜、何百万年もそれが繰り返されたら・・ああいう地形になるワケだ。実は赤湯周辺の岩山は殆どが砕けた岩塊が地表を厚く覆っている土地で、痩せているが極めて水はけが良い。表面の石を集めて石積みにし、段々畑にして湿気に弱いブドウを植えたのが、赤湯のぶどう産地の興りである。


実はこの水はけの良さもU字谷形成の大きな要因になっている。あれだけの規模の谷地形なのに、谷底には常時水の流れる沢が一本たりとも存在しないのだ。降った雨は一箇所に集まることなく殆どが直ぐさま地面に浸透し、地表近くのガラガラの石だらけの地層を伝って速やかに排水してしまう。言わば地中に、目に見えない排水河川が埋もれているようなものである。地表に沢があるとその周辺が浸食・洗掘されてV字谷となる。それがないので堆積したままのなだらかな地形が保たれているのである。


この赤湯層由来の礫層、困った特性がひとつある。数十mもの厚さの玉石・砂礫層であるにもかかわらず、地下水がほとんど出ないのだ。河川で堆積した砂礫であれば古くとも100万年前には出来ている。それがこの大洞の地盤は中新世、原岩が出来てから約一千万年の時間が流れている。しかも自位置で礫状となったため土砂が層状となっていない。礫層は出来てからの時間の経過と共に礫と礫の間の間隙に細粒分が沈着し、目詰まりを起こして透水性がどんどん低下する。加えて層状となっていないため、横方向に繋がった地下水の帯水層が発達しないのだ。つまりこの礫層、水が浸透しないし溜まらない訳あり物件となってしまっているワケだ。


北欧と言えば氷河やフィヨルドのほか、高緯度の薄暗い世界で妖精と魔法が身近に息づいている幻想的なイメージがある。彼の地で生まれたムーミンも妖精のひとつだそうだ。(決してカバでは無い!)その昔、雪がしんしんと降り積もる静寂の夜にいろり端で、今は亡き祖母が語ってくれた「とんと昔あったけど・・」と、相通じる情緒を感じるのも私だけでは無いはず。

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第13話 ~枕を愛してる?~

写真は、今や全国区となった加茂水族館に隣接する荒崎灯台からの眺めである。日本海としては滅多に無い深い紺碧の大海原が広がり、黒褐色の岩肌に僅かに白波が立っている。いかにも磯釣り日和のロケーションであるが、「黒鯛はフカセ釣りで朝まずめが一番」などと知ったかぶりの話をするつもりは無い。一度も釣れたこと無いし・・。

注目は沿岸の岩である。表面がざらっとした岩々が、外洋に向かって伸長しそれらが規則性を持って並んでいる。また、一つ一つの岩は全体に丸っこい形状で、まるで黒砂糖を練り込んだ細長い焼き菓子のようでもある。実はこの岩、枕状溶岩(ピローラバ)という北陸~北日本の日本海側の沿岸によく見られるものであり、中新世前期、今から2000万年ほども前に海中で噴出した玄武岩溶岩の形態の一つである。こういった黒っぽい塩基性岩の溶岩は、さらっとした粘りの少ない性質で、海底に噴出して急冷され薄い外壁を纏うが、それを押し破って次々に円筒形の岩体がドロドロと「う○ち」のように押し出される。(クレヨンしんちゃん的表現😉)ハワイキラウエア火山の溶岩流による同様の映像が何度かテレビで流れた事があるので、ご存じの方も多いだろう。溶岩が海水に直接さらされた部分は破砕して波に洗われ、中心部分がそれこそ枕を積み重ねたように並ぶ事になる。また、押し出される溶岩の量が多いと一かたまりの岩塊となり、中心部から外側に節理(溶岩が冷える際にできる規則正しい割れ目)が放射状に発達した車石と呼ばれる奇岩となる場合もある。また、地中の浅いところで溶岩が地層と地層の間でゆっくり固まった岩床となると短柱状・ブロック状・板状など、様々な節理構造が発達する。旧温海町の沿岸部では場所によって様々な節理構造の露岩が次々に現れ、さながら割れ目の見本市のようである。いにしえの海底火山の様子をあれやこれや想像することができて面白い。

30年ほども前、私はとある地質見学会に参加した。その時は「チン状溶岩・ピローラバー」と教えられた。チン状?枕の偏愛者?予備知識無しで参加した私にも非はあるが、刷り込み効果のように未だに「Lover」が頭から抜けない。

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第12話 ~Another World~

 地質調査の下見や踏査で山の中に入ると、錆び付いた鉄骨や何に使われたか分からないコンクリート躯体など、明らかに人工的な構造物に出くわすことがある。時にそれらの周辺に藪に埋もれるように家屋の残骸や石段、石碑・墓石など、人々が生活していたと思しき痕跡が残されている事もある。人々から遺棄されたそれらを「遺構」と呼ぶが、直に目の当たりにすると今立っているその空間だけが忽然と外界から切り離されたような寂しさと、一抹の不安感を覚えるものだ。


 写真は昭和11年に開通した栗子隧道の福島県側坑門である。訪れる人も無い山の中に今でもひっそりと佇んでいる。米沢から福島へと通じる街道は、明治初期まではJR路線の近くを通っていた板谷街道が使われていた。しかし道が狭隘で物資の大量輸送ができず、冬季は通れないなど街道としてはいささか情けない状態であったため、これを憂えた当時の鬼県令・三島通庸の発令によって栗子隧道を含む新街道・萬世大路(ばんせいたいろ)が整備されたのである。ちなみに「萬世大路」の銘は東北巡幸の際立ち寄った明治天皇によるものと伝えられている。写真にある栗子隧道は、明治期に建設された初代の栗子山隧道を拡幅整備した二代目であり、西栗子・東栗子に分かれた国道13号線のトンネルが三代目、東北中央道の栗子トンネルが四代目となる。明治期の初代隧道は全長860m余で、当時日本最長を誇った。付近の地質はやや古い時代の流紋岩が主体で、地質図上の表記では岩体・岩石共に3Cの最高ランクの硬さである。山形県側には初代隧道の坑口が残っているが、その内部は石鑿(いしのみ)で削られた跡がが生々しく残り、いびつなゴツゴツとした岩肌ががあらわになっていると云う。人力だけで硬岩相手に日本最長の隧道を掘削した、往時の技術者(職人)の壮絶とも云える奮闘の様子が目に浮かぶようである。


 萬世大路の整備と共に宿場町として大瀧・大平(福島側)川越石(山形側)などの集落が栄えた。大瀧宿の町並みは半ば朽ちつつ今も旧道沿いに残るが、ほか二村はどこに民家があったのかさえ定かでない。栄枯盛衰を極め、人々が行き交う住民の確かな生活があった彼の地も、今では太古からの静寂に戻っている。当(まさ)に兵(つわもの)どもが夢の跡である。
ところで平塩の塩泉をはじめとする山の塩分はいったいどこから供給されているのだろうか?。今の地盤を形作る過程では、かつて付近一帯が海だった時代(中新世中期)があり、それが徐々に隆起や新たな堆積物の供給により浅くなり(中新世後期)、入り海や湖の時代(鮮新世)と変化してきている。地層の生成と共に地下に貯留・封入したままになっている海水を「化石海水」と呼び、これが塩水泉や多くの温泉成分の元となっている。化石海水はヨーロッパや中南米などの降雨の少ない非火山地域では、徐々に乾燥濃縮し岩塩となる。しかし降水の多い日本では浸透水も多いため塩は液体の間隙水としてのみ存在する。日本の塩泉の濃度は約1.0%前後の事が多く、くだんの東北クリーン開発様の井戸で最大0.6%程度、寒河江市塩水の渡辺外科胃腸科医院様の井戸水で約0.8%、小塩の農水省の井戸で約1.0%、弊社の新髙田温泉で塩分が約1.3%である。その他目安として海水がおよそ3.5%、濃口醤油が約14%相当となる。平塩塩泉の塩分濃度は塩化物総量で計算上約2.5%に達し、近在の塩泉の濃度としては飛び抜けて高い。例外として兵庫県の有馬温泉はプレート境界に取り込まれた塩水が湧き出す特殊な温泉であって、塩分濃度は実に6%に達し日本一濃い。(ホテルの値段も高い‥)そんな温泉に浸かると漬け物になりそうで血圧の高い私はいらぬ心配をしてしまう。まあ、どうせ泊まりに行ける機会は一生無いであろうから全くの杞憂なんだが。

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特別号 ~雑味は旨い!~

 山形盆地の西側には「塩」を含む地名が多数存在する。代表的なところで、出塩・塩辛田・小塩・平塩・塩水・塩ノ平・塩の淵・塩田など、枚挙にいとまが無い。それらの多くで塩分を含む地下水が湧き出ており、古来より人々の生活に大きく関わってきた。弊社でもこれらの地区の背後に当たる山中で東北クリーン開発様の使用水確保のため何本もの井戸を掘削したが、地下水に高い濃度の塩分が含まれており、対処に苦慮した経験をもっている。このような塩分を含む地下水を日々のくらしに有益に利用していたのは寒河江市の平塩地区だけである。その他の地区は塩分によ
り植物が育ちにくい土地とか、田畑への引水に注意しなければならない水とか言うネガティブな扱いを受けてきた。


 平塩舞楽で有名な平塩熊野神社の近くに小さな祠(ほこら)が祀られている。祠の中にはやや白濁した小さな湧き水の溜まりがあり、これがかつて村内に数ヶ所あったという塩水泉の一つである。そもそも当地の地名「平塩」は、かつてこの水から生活用の食塩を得ていたという史実より「煮詰めて冷やした塩→冷や塩→平塩」に転訛したものと云われている。戦時中まで細々とこの食塩造りが受け継がれてきたが海塩が潤沢に流通するに伴い、その後永らくその伝統が途絶えていた。ところが近年、地元産品の掘り起こしの一環として、有志の方々が再び食塩製造に乗り出していると聞く。(まだまだ試作段階のようだ)平塩地区を含め山形盆地西縁に湧く塩水は、いわゆる食塩分(塩化ナトリウム)のほか、様々な電解質と鉄分などのミネラルや硫化物(硫黄分)など雑多な成分が含まれている。平塩地区のそれは他の地区よりいくらかこれらの雑成分が少ないが、それでも何回もの濾過や沈殿を繰り返さないと食用塩にはならいという。人間の舌と云うものは純粋な成分ほど「すっきりした味」と感じると同時に「尖った・きつい味」ととらえる。手間暇かけた平塩の塩は「奥行きのある・甘みを感じる」極上の味わいに仕上がっているそうだ。


 いきなり脱線するが、福島県の115号線、つちゆロードパーク(道の駅つちゆ)では、かつて弊社で施工した水源井戸が完成するまで、飲料水はふもとの土湯温泉からタンクローリーで運び上げていた。当時はこのような施設に必須とも言えるそば・うどんなどの軽食コーナーも無く、手洗いには「この水は飲めません」の張り紙。全体に寂れ、どこかうらぶれた雰囲気が漂っていたものである。福島市より水源開発を委託された私達は、手洗いに引いていた山水の水源地に行ってみた。そこには小さな沢に堰を設け、イモリの泳ぐ水中に網かごをかぶせた黒パイプの吸い口が覗いていた。試しに、沢水をすくって直接口に含むと瑞々しい若葉のような香りとまろやかな甘みを感じる。「旨い!」。私はこう見えても山岳部出身である。自然の沢水は鉱毒を含んだヤバい水まで腹を下しながらもさんざん口にしてきた。つちゆロードパークの飲用不可の源水は、かつて味わった自然水の内、一・二を争う旨さであった。山野に積もった落ち葉は長い時間をかけて分解され、フミン質という高分子有機物が生成される。その中には様々な芳香を放つ成分とアミノ酸や単糖類に変化する物質が含まれており自然水に複雑な香りやうまみ・甘みを与えてくれる。平塩の塩と同様、自然の雑味は人間の舌には滋味溢れる優しい甘露となるようだ。


ところで平塩の塩泉をはじめとする山の塩分はいったいどこから供給されているのだろうか?。今の地盤を形作る過程では、かつて付近一帯が海だった時代(中新世中期)があり、それが徐々に隆起や新たな堆積物の供給により浅くなり(中新世後期)、入り海や湖の時代(鮮新世)と変化してきている。地層の生成と共に地下に貯留・封入したままになっている海水を「化石海水」と呼び、これが塩水泉や多くの温泉成分の元となっている。化石海水はヨーロッパや中南米などの降雨の少ない非火山地域では、徐々に乾燥濃縮し岩塩となる。しかし降水の多い日本では浸透水も多いため塩は液体の間隙水としてのみ存在する。日本の塩泉の濃度は約1.0%前後の事が多く、くだんの東北クリーン開発様の井戸で最大0.6%程度、寒河江市塩水の渡辺外科胃腸科医院様の井戸水で約0.8%、小塩の農水省の井戸で約1.0%、弊社の新髙田温泉で塩分が約1.3%である。その他目安として海水がおよそ3.5%、濃口醤油が約14%相当となる。平塩塩泉の塩分濃度は塩化物総量で計算上約2.5%に達し、近在の塩泉の濃度としては飛び抜けて高い。例外として兵庫県の有馬温泉はプレート境界に取り込まれた塩水が湧き出す特殊な温泉であって、塩分濃度は実に6%に達し日本一濃い。(ホテルの値段も高い‥)そんな温泉に浸かると漬け物になりそうで血圧の高い私はいらぬ心配をしてしまう。まあ、どうせ泊まりに行ける機会は一生無いであろうから全くの杞憂なんだが。


 平塩地区の背後の山々は、深い海の時代に生成した「月布層」相当の泥岩の上にやや浅い海の時代の「橋上層」の砂岩類が厚く堆積している。丘陵地のふもとに位置する平塩地区はこの橋上層に接している。では湧き出す塩泉の源(塩分)は、この橋上層に含まれているのであろうか?答えはほぼNOである。無論この橋上層(砂岩)も海の中で出来た地層なので、太古には塩分を多量に含んでいた。しかし、透水性の高い砂岩では降雨による浸透水により塩分が洗い流されてしまう「溶脱」が進みやすいため、地層中の塩分はどんどん失われてしまう。特に溶脱が生じやすい山地・丘陵地の砂岩では水溶性の塩分は限りなくゼロとなる。では現在の塩分の供給元は何処かと言うと、結論的には月布層(泥岩)等の透水性の低い地質となる。しかしだ、透水性の低い「泥岩」に孔をあけても本来、ほとんど地下水は集まらないはずだ。では塩水の出る井戸はどこから水が入ってくるのだろうか? 実は泥岩から長い時間をかけ少しずつ溶出した塩分を含んだ水は、ただの浸透水(真水)より比重が大きいため、地層のくぼみや亀裂に溜まると塩水が下・真水が上の二層にきれいに分かれる。それらはいつまで経っても混じり合わないばかりか、上層の真水だけがサッサと短期間で流出してしまい、後には塩水たまりだけが残される。だからこの貯留した塩水層に井戸を設けるとしょっぱい地下水となる訳だ。平塩の塩泉水も大元は泥岩層の塩分とみられる。おそらく塩水泉周辺は、表流水や真水の湧き水(浅層地下水)などが無く、水の循環供給が乏しい地区と推察される。そのため、地下深部の泥岩層から少しずつ湧き上がる塩水が薄まらずに、地表まで達する事ができたのだろう。


 我々が口にする食塩の風味は塩化ナトリウムを除いたその他の成分で決まる。であれば、海の水から得られる海塩は日本、いや世界全体でもそんなに差は無いはずだ。それに対して内陸塩(山塩)はその土地土地によって組成成分が大きく異なると同時に当然味わいも違う。ちなみに、有名な赤穂塩や伯方塩は輸入した外国産の内陸塩に日本の海水を足して製造した「調整塩」であり、多くの雑成分を含んでいるものの純粋な日本の塩では無い。


 日本国内の内陸塩としては、福島県北塩原村の大塩温泉の会津山塩がある。生産・供給量はごく少なく、薪釜で煮詰められたそれはまろやかで風味豊かな塩だという。ここ山形の土地・風土に根ざし歴史に裏付けられた「平塩の塩」も、いつか寒河江の焼き鳥やラーメンに使われ、それらと共に地域の名産品に育ってくれる事を期待したいものである。

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第11話 ~紅茶のお供に~

 ミルフィーユのように赤紫と灰白色の縞模様が美しく重なるこの石は山形近郊、長谷堂-隔間場に産する縞状流紋岩である。昭和60年頃より盛んに採掘され、造成盛土材として大量に市井に出回った。山形地区一円から寒河江西村山で山砂利といえば、この石が普遍的に用いられていたものである。私が入社した当時は小高い山であった原石山も、現在は採掘跡の平地に太陽光パネルが並ぶなど大きく様変わりし、採石自体はほとんど行われていないようである。
地下のマグマが直接の成因となる岩石を「火成岩」と云い、その内、地表近くで速やかに冷却したものを「火山岩」、中でも石英や長石などケイ酸分に富むものを「流紋岩」と云う。岩石としては全般に白っぽく明るい色調であることが多いが、ケイ酸分以外の鉱物の種類や冷え方によってはかなり暗色の流紋岩もあるため、色だけで岩種を決められるものでは無い。たとえば石器時代に多用された黒曜石も流紋岩の仲間と云えるが、その名の通りガラス質の真っ黒な石となっている。


 隔間場の流紋岩は、中新世中期(約1,300万年程前)に海底に噴出した溶岩によって生成したものだ。噴出溶岩の外殻は海水で急冷されてバラバラに砕けるが、中心核に近い部分では、漸次供給される溶岩の圧力によって流動しながら徐々に温度を下げて固まってゆく。岩石を造る鉱物はその成分によって固結温度が微妙に異なるため、流動しながら組成成分が凝集しあの見事な縞模様(流理構造)を造ったものと考えられる。溶岩の成分と温度、量と噴出速度、周辺環境のどれか一つでも違えばこの石は生まれなかった。まさに奇跡の産物である。また、流紋岩は冷却と共に規則性のある亀裂(節理)が発達し、岩質も硬質な割には割れやすい。そのため比較的容易に採掘でき、低コストで山砂利を開発・供給できたのである。


 隔間場の縞状流紋岩は日本全体を見わたしてもあれほど見事な流理模様は無い。一時期、ある方がこれを研磨・成形して飾り石して売り出そうと試みたという。だが岩質が災いして加工が難しく、コストに見合わずこれを断念したという。まぁ、山砂利として利用する立場からすれば、変な付加価値が付かず安価に利用できて良かったと言える。

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第10話 ~時が止まった村~

 最上峡の中ほど、大河の右岸側に舟下りの名所・外川神社(仙人堂)が建立されている。それを携える小外川という集落がかつてここにあった。入社して数年目の冬、帰路を急ぐ車の助手席でふと河の向こうに視線を向けると、ぼんやり灯る明かりが一つ二つ。対岸から漏れ届く光に杉木立がおぼろに浮かび、背後の山々は闇に溶け込んでいた。その水墨画のような幽玄の世界に魅入られ、私はしばらくその情景が脳裏から離れなかった。小外川集落は最盛期24人の児童を擁した小学校まであったが、渡し舟でしか往来できない交通の不便さから次第に衰退し、平成10年頃に最後の住人がこの地を去っている。


 最上峡も朝日町五百川渓谷と同様、出羽山地の隆起帯に含まれ、最上川の浸食とせめぎあって険峻な深谷を形成している。国道・JRの交通網や僅かばかりの平地の大半は最上川の左岸側に集中しており、対する右岸側は岸辺から直に立ち上がる急崖だらけで通じる道は一本も無い。最上峡には殆ど堆積平野がないが、この小外川集落付近には比較的大きな3本の支流が流れ込んでいるため低平な開析段丘が形成されている。また急崖の上方の山稜部は尾根を挟んで左右の勾配が異なるケスタ地形と呼ばれる特有の尾根筋が連なっている。これは最上川に直交する幾つもの断層線と草薙層(黒色泥岩)の堆積面(層理)の傾きによるものである。尾根と尾根の間の谷間が急崖の上方に並ぶため、降雨後には最上峡四十八滝とも呼ばれる大小幾つもの滝が現れ、あたりは荘厳な雰囲気を醸し出す。


 小外川集落はその昔、最上川の舟運のために、事故の救難や氾濫時の避難所として設けられた川役所が起源であるという。義経が弁慶と共に奥州藤原京を目指して最上川を遡行したという伝説や、前九年の役で八幡太郎義家がこの地に楯を築いたとか、後年、芭蕉が詠んだ名句「五月雨を集めてはやし最上川」の舞台になった(と言われている)ことなど、この小さな村は歴史のページに度々登場してきた。悠久の時を経て最上川は今も変わらず滔々(とうとう)と流れるが、外界から近くて遠く隔絶したこの地に人々が刻んできた史実は、もうこれ以上紡(つむ)がれることはないだろう。

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第9話 ~誰も知らない絶景~

 山形県には、日本の棚田100選として大蔵村四ヶ村・山辺町大蕨・朝日町椹平の三つが選ばれている。棚田はご存じの通り傾斜地に何段も連なる小さな水田の集まりであり、これら三箇所もそれなりの美しさは感じる。しかし、何れも機械施工を前提とした土地改良の済んだ長方形の水田であり、「日本の原風景」のイメージとはチョット違うと感じるのは私だけではないはず。


 添付写真は1970年代の朝日町上郷地区の空中写真である。写真サイズの関係で良くわからないかも知れないが、大きく赤楕円で示した範囲のほぼすべてが棚田である。小さな谷川沿いを人力で切り開き100段余もの膨大な段数の棚田が耕作されている。しかも、その一つ一つは人力でしか耕作できない小さな不定型のひょろ長い水田であり、それらが数百も集まり山間の斜面を埋め尽くしている。先達が何百年も掛けて開墾し、子々孫々と受け継いできたた棚田であり、当に脳裏にある郷愁の中の原風景そのものである。私はこの上郷の棚田、規模や美しさではかの有名な石川輪島の千枚田にも決してひけを取らないと思っている。


 上郷集落を含む五百川渓谷周辺は、出羽山地の隆起帯に含まれており、最上川はその先行河川である。つまり地盤の隆起と河川の浸食がせめぎあって急速に進んだ地区であり、最上川周辺は地盤の本来持っている強度以上の急峻な浸食地形を形作っている。いたる所に不安定斜面が点在し、地すべりや崖崩れなどが頻繁に生じるのも河川浸食が急速に進んだための悪影響に他ならない。上郷地区も平坦な地形は殆ど無く、古の人々は山間の傾斜地(多くは崩壊斜面)を膨大な年月と労力を費やし、少しずつ切り開いてこの絶景を造ったのである。
上郷の棚田は現在、その大半が耕作放棄地となって原野に戻りつつある。農村人口の高齢化と共に急速に失われつつある風景に寂寥の感を禁じ得ないが、観光地化など日の目を見ずに人々の記憶からも消え去りつつある一つの社会資産と考えると非常にもったいないと感じてしまう。

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第8話 ~ウネウネは嫌い!~

 会津は古来より米の大穀倉地帯であったが、同時に洪水の常襲地帯でもあった。これは会津盆地より流れ出る河川が阿賀川1本しか無く、しかも盆地端で川が狭窄してウネウネと蛇行しているため、排水能力が極端に低い事が主たる原因であった。添付の写真を見て欲しい。水色で示した部分はかつての阿賀川の流路であり、現在、それらはショートカット(捷水路:しょうすいろ)化して河川が大幅に短くなっている。同時に数mの河床の掘り下げも実施されており、会津盆地のボトルネックが大幅に改善されている。


この捷水路の建設工事は、大正10年から始まった国策事業であったが戦時色が強まる昭和14年に未完成のまま中断している。戦後再開されたが事業が完全に完成したのはなんと平成10年であり、完成まで実に80年余もの長い年月を要している。工事にはあの信濃川-大河津分水の建設で使用された、イギリス製の大型蒸気掘削機械を転用して掘削が行われたと云う。周辺は決して平坦な地形では無い。全体として緩やかな丘状の地域であって、阿賀川沿いは岸辺が数十mもの切り立った断崖になっている箇所がいくつも存在する。これを人が掘削したのかと思うとその根性に恐れ入るばかりである。大河津分水の場合、信濃川と日本海との間を単純に仕切って間を掘削しただけであるが、当地の場合、相手は生きている河道である。何ヶ所もの仮締切り(河川の中に矢板等で施工範囲を仕切る工事)を繰り返す必要があり、大型クレーン等の無い時代、どのように施工されたものか不思議にさえ思う。たゆまぬ創意工夫とおそらくは少なくない犠牲があったのではないかと察するに余りある。


私がこの捷水路を知ったのは、旧山都町での調査に要した空中写真であった。調べてみると当時の時代背景と共に人々の生々しい生活の様子なども浮かび上がってきた。この橋も道も無かった、向かいの部落に行くのに渡し船‥‥大河の如くゆったりとした時間の流れも感じられた。

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第7話 ~幻の立谷川温泉~

 山形盆地は奥羽山脈と出羽山地に挟まれた地溝盆地である。「地溝」とは、両側が断層で境されて落ち込んだ溝状低地である。今まで山形盆地の「断層」については、盆地西側のものばかり説明してきた。それらと対になる盆地東側の断層については、年代が古く堆積物も多いためあまり明らかになっていない。ここで私見の一端を述べたい。山形盆地を南から斜めに眺めると、山形市山家地区裏の丘陵~天童市舞鶴山~村山市土生田地区の山地の縁が見事に一直線に並ぶ。(図の赤線)また、天童市の貫津付近と東根の旧市街付近にもおぼろげな線状構造(東根谷,貫津谷と示した青線)があり、山形市高瀬地区と宝沢地区にも同方向の線状構造が並んでいる。天童温泉と東根温泉は二線の交点近傍に当たるがこれらの線状構造と温泉との関連性は何かあるのだろうか?


以前私は「盆地内部でも地表近くの高温の温泉は火山性である」と述べた。東根温泉も天童温泉も僅かな深度で高温の温泉を得ている事より、共に熱源は地下深部の火山熱であると推測できる。であればその直下には熱水が上昇する隙間がある事になる。連続した鉛直方向の隙間と云えば断層である。構造的に考えれば、盆地を縦貫する“赤”断層は初期の奥羽脊梁山脈の隆起運動、斜交する“青”断層は後の北側への変位を含む脊梁の隆起によるものと考えられる。つまり、閉じかけた地下深部の古い主断層を、強引にこじ開ける斜めの断層変位が生じて隙間が発生し、その真上に、天童・東根温泉が開湯したと考えられるのだ。


では併走する高瀬谷と宝沢谷の延伸方向には温泉の熱源はあるのか?結論から言えば高瀬谷の先(立谷川工業団地付近)では、熱源はあるが河川の浸透水が豊富なため途中で熱水が拡散してしまっている状態、宝沢谷延伸部は新たな岩脈(流紋岩の小山)で閉塞された状態とみられ共に期待は薄い。(但し、岩脈自体も幾ばくかの熱は持っている)
以上はあくまで私論に過ぎないが、地下水や温泉や地形や地質から「なんでだろう?」と日々疑問を持ち推考する姿勢が、地下を相手にする我々に特に必要な心がけではないだろうか。

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