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第35話 ~金の神水~

 寒河江市と村山市・大蔵村に跨がる頂きを持つ葉山は、古くは出羽三山の一峰に数えられ、山岳信仰の対象として崇められてきた。山頂には白(しら)磐(いわ)神社(奥の院)が祀(まつ)られている。その南側の山麓に田代という戸数100あまりの小さな集落がある。田代には真新しい立派な小学校もあったが、平成25年春に隣の白岩小学校の学区に吸収される形で廃校となっている。


 その田代集落の北側、葉山に向かう道沿いに庚申水と呼ばれる水汲み場がある。傍らには自然石に彫られた素朴な庚申塔が二基、ひっそりと佇(たたず)んでいる。水場はコンクリート製の水槽で、側面から突き出た塩ビ管より勢いよく水が流れ出している。山奥の清水としてはいささか趣に欠けるが、休日には幾つもの空容器を積んだクルマがひっきりなしに訪れる村一番の人気スポットとなっている。この水、水源地は道のさらに北方、実沢(さねざわ)川(がわ)沿いを遡ること数㎞も先にある。川沿いの崖の途中に小さな洞があり、湧き出る水を集めて延々とパイプを這わせて引いているものだ。水源のある崖の上方は畑(はた)地区。既に集落としては廃れているがリクリエーション施設として建てられた葉山市民荘の前庭には長命水という湧き水があり、ハイカーや登山者の喉を潤す名所となっている。


 この葉山に限らず、月山や鳥海山、延いては富士山などの火山には有名な湧水の地となっている箇所が幾つもある。ではなぜ火山周辺に良質な湧き水が多いのだろう。成層火山では火山噴出物が山頂から山肌を下りながら幾重にも累重する事になる。これらの噴出物は河川などによる淘汰作用を受けていないため粉じんから巨礫までさまざまな粒径の土砂が混合しており、見掛けほどは透水性が良くない。しかし地表面は礫や転石で覆われたガレ場となる事が多いため、降雨や雪解け水の多くは直ぐさま地下に浸透し、浅い層状となった土砂の間隙を流れ下ることになる。それらが地形や堆積土砂の流れによって山麓部の特定の箇所に集まり湧水地となったり流入河川のない湖沼の成因となっている。これらの湧水は浸透してからそれほど時間をおかず湧き出る地下水であり、欧州のとある名水のように、数千年の年を重ねた地下水とは全く異なる。日本の火山に浸み込んで数千年も経ったら間違いなく飲める水ではなくなっている。


田代集落は見晴らしの良い台地上に民家が並んでいる。近傍を河川が流れるが何れも深谷を穿(うが)っているため集落内は水が乏しく、古くから生活用水の確保にも苦労した歴史を持つ。庚申水も集落内で組合を作り、協同して数㎞先の湧水を引水して管理してきたものだ。かつて盛んだった60日毎に寝ずの勤行を行ったという民間信仰「庚申講」の集まりがその基となっているのかも知れない。ところで庚申は十干十二支では陽の金が重なる金気(カナケ)の日だそうだ。カナケの清水とはこれ如何に。

 

 

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第34話 ~深窓の令嬢~

 5月上旬頃、わさび(山葵)は山間の沢沿いで小さな白い花をつける。いくらも日が射さない林の中、他に先駆けて艶やかなハート形の葉を精一杯広げ、僅かばかりの光を捕らえようとしている。花茎は中心に白い総状花を付けながら伸長し、小さな鞘(さや)に種を実らせる。もうしばらくすると他の草木に辺りが覆われ、わさびはすっかり藪に隠れてしまう。彼らにとって初夏前までの僅かな時間がその年の営みのすべてなのである。


 旧温海町の山の中、急傾斜対策の地質調査のためにとある小さな集落に通った。山間の狭い谷底平野に十軒余の民家が軒を並べており、集落に接する崖に急傾斜対策を施す計画であった。その斜面に分け入って驚いた。草むらの中に貴重な天然わさびがそれこそ雑草の如く生えているではないか。わさびは冷涼な環境を好み粘土質や有機質の土壌を嫌い、直射日光と乾燥も苦手である。カビなどの菌類にも弱く、他の草々と混じって繁茂するなどあり得ない事なのだ。絶対に適さないはずの日なたの硬く乾いた道路敷に、逞しく育つ「ど根性わさび」の大株を見つけた時には我が目を疑った。病弱な深窓のご令嬢のはずが、いつしか豪快な肝っ玉母ちゃんに化けたかのようなそんな気がした。

 ところがこの自生わさび、少し離れた別の谷筋には全く生えて無い。周囲の環境は集落周辺と似ているのだがわさびだけが唯の一本もない。地上の環境が同じならば地下が違うのか。部落周辺の地質は花崗岩、地表部はその風化土砂のマサ土でサラッとした白い砂だ。ああそうかマサ土か。伊豆や安曇野の清水が流れるわさび田のイメージが強くて思い違いをしていたようだ。彼らは殆ど肥料(栄養)分は要らない。僅かな光と適度な水分、酸素の豊富な土があればそれで良い。マサ土の元となる花崗岩はその大半が石英や長石などの白い粒でできており植物に吸収される養分を殆ど含んでいない。有色鉱物が少ないため風化に要する酸素の消費が少なく、通気性が良い。これに適度な雨でも降ってくれれば、わさびの好適な条件に近くなる。湧水の有る無しは絶対条件では無い。むしろ、余計な養分が増え酸素を浪費するためカナケ水なら無い方が良い。県内ではあまりマサ土地盤は無いが、花崗岩地帯の福島月舘町(阿武隈山地)や岩手の北上山地では平地の畑でわさび栽培が行われている。少し工夫すれば我々の家庭菜園やプランターでもわさび栽培ができそうだ。

 我が家の畑の土手には、県内や福島各地から集めたわさびが毎年白い花をつける。その多くは山菜の直売所などで買い求め、根のしっかりした株を選んで植え付けたものだ。すべての自然環境を整えてやるのは難しいが、日照さえ気をつければそれなりには育ってくれる。若い花茎だけを摘んで軽く湯通しし密閉しておけば、ツンと爽やかな香気が生まれる。食卓に春の訪れを感じる、我が家のささやかな贅沢である。

 

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第33話 ~袂を分けた霊水~

赤川は幹線流路長70㎞,流域面積約860k㎡あまりの山形県で二番目に大きな河川である。朝日山脈の一峰、以東岳に源を発し、出羽三山からの流水を集めて北上し、地芝居歌舞伎で有名な酒田市黒森地区付近で庄内砂丘を横切り、直接日本海へと注いでいる。


今は治水対策も進み、それほど大きな水害を生じなくなった赤川であるが、かつては数年に一度は大氾濫を繰り返す暴れ川であった。昭和初期までの赤川は最上川河口で京田川と共に合流しており、赤川は最上川の支流のひとつに過ぎなかった。そのため豪雨の度に河口部で流水が横溢(おういつ)し、庄内平野でも特に標高の低い地帯を流れ下る赤川の下流域とその支流の大山川周辺は、慢性的な洪水の常襲地帯となっていた。比較的近代まで湿田としても耕作できない湿地帯が広く河口一帯に広がっていたものである。そこで時の政府は治水対策として280町歩もの圃場を取りつぶし、赤川の川幅を広げる工事を計画した。しかし農民が水田を取り上げられては生活が成り立たず地域経済が衰退する。たまたま酒田を訪れていた今の秋田県大曲出身の政治家、榊田(さかきだ)清兵衛は実状を目の当たりにし、この計画は無理があり却って地域の荒廃と農民の離散が進むと憂えた。そこで彼は東奔西走して国に強く働きかけ、ついに大正10年、庄内砂丘を横切る赤川放水路(新川)の開削工事が直轄事業として動き出す事になる。


赤川放水路の建設は大正10年から昭和11年まで、15年の歳月と延べ120万人の人工(にんく)、当時の最新式掘削機械を投入し行われた。放水路の延長は2.7㎞あまり、砂丘の最も高い部分は標高25mほどもあったと云う。掘削の一部は機械が使用されたとは言え、作業の大半は人力頼みで土砂の運搬はトロッコ馬車が用いられた。全国から作業員が大勢集まり、地元の黒森地区には宿屋や飲食店が建ち並び大層にぎわったと聞く。


ようやく完成した赤川放水路であったがこれだけでは暴れ川は治まらなかった。その後、八久和・荒沢・月山の各ダムの建設や河道の修正、築堤護岸工を進め、平成に入ってからようやく多少制御ができるようになってきたに過ぎない。くだんの赤川放水路も拡幅や沿岸部の保全工などが継続され、つい先頃の平成13年、ようやく完全な竣工に至ったのである。


「赤川」と言う名の川は全国で30あまりもあると云う。その多くはアイヌ語の川を意味する「ワッカ」の転訛であったり、鉄分が多くて赤黒く濁った水色から来ているそうだ。しかし山形赤川は霊峰の雪どけ水を集める清らかな流れであり、少なくとも赤黒い濁水では無い。諸説あるが、出羽三山を流れ下り流域に梵(ぼん)字(じ)川(がわ)などという修験道を連想させる名もある事より、神仏に供える「閼伽(あか)水(みず)」と関係しているという説が至極尤(もっと)もだと思う。赤川は霊験あらたかな神聖な流れなのである。

 

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第32話 ~大峠と八谷鉱山~ 連載3周年特別号

 

1.大峠の光と影


山形県米沢市と福島県喜多方市を結ぶ国道121号大峠道路。今は快適な山岳ハイウエイとなり、通年安心して走れるようになったが、今回お話しするのはその旧道、米沢市入田沢から喜多方市根小屋を通る旧「酷道」の物語である。

 

旧大峠隧道・福島側坑門 −− モルタルを塗り固めただけの補修あとが却って生々しい −−

 

私が入社してまもない40年ほども前、喜多方市のとある食品工場でさく井工事やその井戸を含む給排水設備のメンテナンスを行うため、頻繁に現地と行き来する必要があった。工場のすぐ隣を今は廃線となった国鉄・日中線が一日数本、ガタンゴトンとのどかに行き来していたそんな時分である。当社から喜多方に行くには福島と山形の県境を跨ぐ必要があるが最大の難所が大峠道路であった。パワステの無い日野の4トンユニック車に重いワンビット(パーカッション工法の掘削ツール)を積みこみ、腰高で少し傾いだ状態で通る峠道はなかなかにスリリングであった。国道とは名ばかりの未舗装のつづら折りが続く山道を黒煙を吐きながらよろよろと登るトラック。右側は山肌が迫り、路上に落石の岩片が転がっている。左側は怖気(おぞけ)が走るほどの深谷。はるか谷底に朽ちた車両のようなモノが見えた(ような気がした)。這々(ほうほう)の体(てい)で峠を登り切ると狭く補修あとだらけの大峠隧道をくぐる。すると道路の状況が一変する。山形県側は狭い砂利道が続いていたが福島県側はとりあえず舗装されている。しかしだ、なんだこれはと言うほどのヘアピンカーブの連続。その数80程もあるそうな。日光いろは坂も真っ青のグネグネ道である。まるで幼児が遊び半分で描いたようなつづら折りの連続。かつてはこの道路をバスが通行していたと言うのだから恐れ入る。

 

大峠道をバスが走るの図


ただこの大峠道路のバス路線。実際に定期便として活躍したかどうかは定かでない。写真のバスの列は開業当時のデモンストレーションのように思えてならない。見ているだけでクルマ酔いしそうだ。

 

・大峠道路のおこり
この旧大峠道路、歴史をひもとけば江戸時代より更に前の安土桃山時代、あの豊臣秀吉や独眼竜・伊達政宗の時代まで遡(さかのぼ)る。当時米沢を治めていた政宗は会津侵攻のために密かに道路を開発していた。今の米沢市綱木から桧原村に抜ける米沢-会津街道が重要街道として使われており、その桧原峠を挟んで米沢・伊達政宗と会津・蘆(あし)名(な)義広が攻防を繰り返していた。大峠道路で政宗は背後から虚を突いて会津に奇襲をかけようとしたのかも知れない。その後この大峠道路が実際に使われたかどうかは定かでないが、政宗は磐梯山麓の摺上ヶ原で蘆名勢を打破りついに会津を手中にする。その頃の政宗の所領は山形の置賜、福島の中通りとこの会津、宮城県の中南部の外、南陸奥や奥州の一部も実質的な支配下にあり、全国的にも有数の規模を誇った。しかし正宗の急成長を危惧した豊臣秀吉により会津が召し上げられ、その後、蒲生氏・上杉氏・加藤氏と会津の領主が次々と移り変わることになる。会津鶴ヶ城を今の姿に整備したとされる加藤嘉明は会津の歴史に汚点を残すこの大峠越えの道路を封鎖する。政宗が大峠を切り開いて僅か50年後の事である。主要街道を一本に絞り地域の平定を狙ったのかも知れない。その後、明治の初期まで実に250年もの間、大峠道路の名は歴史の表舞台から消えることになる。


・近代の大峠道路
大峠道路の歴史を再び動かしたのはあの三島通(みしまみち)庸(つね)である。三島は山形・福島・栃木の各県令を歴任し、その間、栗子隧道(萬世大路)や大峠を含む会津三方道路の整備など、東北地方の産業育成に努め「土木県令」の異名を取った。

 

鬼県令-三島通庸


一方その手腕は極めて強引で、建設費の大半を地元に負担させ、そのうえ建設自体も民間人の強制的な夫役(ぶやく)(労役を課す事)を求め、または代夫賃の徴収を強要するなど、地元の反発を招いた。福島県は早期に自由民権運動が広まった地で、三島は民権派が多数を占める県会を軽視・無視して専断的な政治を強行した。三島に従わぬ有力者を次々に投獄排除したと云う。これに激怒した会津地方の議員や農民数千名が決起し喜多方警察署周辺に詰めかけ,警察側は抜刀警官による弾圧でこれにこたえ逮捕者は約二千名にも及んだ。(喜多方事件・福島事件)大峠道路は三島の独断的施策によって建設されたが地元民73万人余りの文字通り血と汗と涙によって完成されたとも言える。鬼県令・三島通庸の名は特に福島にて悪名が高いが、道路や橋梁の建設により地域経済の礎を築いたのも確かであり、評価が二分されるところではある。曲折の上整備された大峠道路であるが、峠部には隧道が築かれ牛馬車や車両の通行できるようになり物資の流通が盛んに行われるようになった。

・強制移住させられた?部落
旧大峠道路の福島県側、標高九百m程のところに「沼ノ原」という集落があった。付近は旧大峠道路沿いで唯一、なだらかな南向きの緩斜面が広がる地区で、いわゆる地すべり地形のひとつである。
地形図に鳥居マークがただ一つポツンと描かれているだけで、現地には何も無い。民家はおろか田畑の跡もはっきりとしない状態で完全な廃村となっており今は鬱蒼とした杉林が広がっているとのこと。示した地図にはないが北西方向に大沼なる池沼があり、その上方に馬蹄形の明瞭な滑落崖が存在する。集落の中心の土地はこの地すべりの流れ出した土塊の中~下部に相当する。大峠道路の途中に集落ができるとすればここしかない、そんな地形である。この沼ノ原集落に限らず人里離れた山間部で周辺部の地形にそぐわないなだらかな土地が急に広がっている場合があるが、それらは地すべりの跡地である事が多い。水が豊富で土地も肥えているため集落や田畑の耕作地として利用された歴史を有する事が多いが、現在その大半は放棄されて荒れ地となっている。

 

旧国道と助け部落・沼ノ原


沼ノ原集落は今の大峠道路の開通直後、明治17年に8軒の民家が移り住んで集落を営んだとされている。実はこの集落、三島の施策により他の地区から強引に転入させられたのでは無いかと言われている。開通直後の大峠道路は今の米沢市入田沢から喜多方市根小屋まで30㎞ほども無人の山道が続く。峠の隧道付近は標高約一千m。環境が厳しく熊などの野獣も多い。徒歩での峠越えが主流であった当時、旅人のいざというときの助け屋敷として置かれたのがこの沼ノ原集落ではないかと言われている。だが時代が移り往来の手段が自動車に変わるとその存在意義は失われ、また、雪国の隔絶した高地という環境から農地としての生産性も低く、生活も困難であったのだろう。戦後、次第に集落が衰退し静かに元の原野へと戻っていった。
旧大峠道路は平成4年、新道の部分開通と共に通行止めとなり、平成24年国道指定から除外されて廃道となった。いろんな思惑のもと戦国乱世に生まれた道路が今、数百年の歴史に完全に幕を降ろしたのである。

 

2.八谷(やたに)鉱山

 

大峠で忘れてならないのが八谷鉱山である。八谷鉱山は大峠の米沢側、現大峠道路と旧道の分岐より1㎞ほど上ったところに入り口があった。

 

旧大峠道路にせり出すように設けられたホッパー


写真は大峠道路の山形県側のかなり上った位置ににある八谷鉱山の施設だ。ホッパーとはクラムシェルバケットで採掘された鉱石をつかみ取り、そのまま索道で運搬してダンプトラックに積み込む施設である。積み込まれた鉱石は宮城県の細川鉱山へと送られて処理・精錬されたとの記録がある。旧大峠道路を走る分にはこの八谷鉱山の施設はあまり目に入らない。遙か谷底に何かの建物の屋根が数個と何本かの作業用道路が見えるだけである。八谷鉱山は選鉱や精錬施設を持たないのでそれらの建物や廃鉱のズリ山が無い。また、従業員はすべて米沢市からバスで通勤していたため鉱山町が形成されなかった。なので付近に目立った鉱山遺跡が少ないのだ。旧大峠道路を走って唯一、鉱山の施設を目の当たりに出来るのがこのホッパーだ。砕石山や鉱山施設には必ずある設備であるが、この八谷鉱山のホッパー、私の記憶が正しければ大峠道路(旧国道121号線)のすぐ脇にあったように思う。何を言いたいかと言えばつまり、道路上(国道)にダンプを駐めないと積み込み作業が出来ないと言うことだ。いくら通行量が少ないとはいえ120番台の主要国道に駐めっぱなしにしないと作業が出来ないような施設をよく国が許可を出したものだなと。だがこれには許可を出した役所側と道路を利用する鉱山側のもちつもたれつの思惑があったような気がしてならない。あくまで私の勝手な憶測ではあるが、倒木や落石が多く手入れが行き届かない大峠道路、営業用にこの道路を繁用している八谷鉱山側に便宜を図ってその代わり通常の道路の手入れは鉱山側に押しつけるというような取引があったのではないかな。
八谷鉱山は三菱系の尾富鉱業により経営された金・銀・鉛・亜鉛・硫化鉄を産し、最盛期の昭和50年頃には年間10万トンもの鉱石が採掘され、従業員も二百名を上回るなど大いに繁栄した。だが私が喜多方に通うのに利用した昭和60年頃、鉱山の規模を縮小しつつあったのだろう。実際にこのホッパーが稼働している(車に鉱石を積み込んでいる)光景は、ついぞ目にする事ができなかった。(昭和63年閉山)

 

・鉱床学のさわり
地質コラムを標榜(ひょうぼう)する以上、鉱山(鉱床)についてもチョットだけふれたい。金銀をはじめとする有用な成分を通常の岩石より多く含んでいて、採掘されて利用されるものを鉱石と呼び、それらが地中に分布する塊を鉱床と称する。鉱床のでき方には大きく分けて三種類あるとされ、①火成鉱床,②熱水鉱床,③堆積鉱床に分かれる。ここでそれぞれに説明を加えると紙面がいくらあっても足りないし小難しくて読みたくないと思うので、日本の鉱床の大半を占める②熱水鉱床についてだけ簡単に述べたい。しばしお付き合いのほどを。
熱水鉱床は地中深くのマグマから分離した水が周辺の岩石の成分を溶かしながら移動し、温度が下がると共に特定の箇所で成分が沈殿・濃集したものだ。地下の高温のマグマ、実は数%の水分を含んでいることは案外知られていない。火山国日本の金属鉱山は一部を除きこの熱水鉱床に類すると考えて良い。マグマで一定条件以上の高温・高圧に加熱された水分は液体(水)でも気体(水蒸気)でも無い超臨界水と云う状態になる。
この超臨界水、有機溶剤も上回るほど溶解度(他の物質を溶け込ませる能力)が高く、周辺の鉱物をどんどん溶かし込む。大量に成分が溶け込んだ高温の水(熱水鉱液)は地表に向かって亀裂や岩石の隙間を伝って移動する。すると徐々に温度が低下すると共に溶解度も低下するために隙間の周辺に特定の鉱物が固体として分離するようになる。これが熱水鉱脈型と言われる鉱床で、金・銀・スズやタングステンなどはほとんどがこのタイプの鉱床から得られる。

 

黄銅鉱-熱水鉱脈の代表的な鉱石(金では無い)


外見的な特徴としては白い石英や水晶の隙間に結晶化した金属鉱物が析出しているものが多く、開口面が美しいのでよく飾り石として利用される。八谷鉱山もこれに類する鉱脈だ。
もう一つ、有名な鉱石として黒鉱がある。

 

黒鉱-結晶の細かい黒い石?

 

過去の拙稿にて日本列島が大陸から分離する際に東北~北陸の日本海側で激しい海底火山活動があったことを話した。黒鉱はその火山活動で生じた熱水鉱液が直接海水で冷却されて生じたとされ、日本海側の金属鉱山として操業していた鉱山の多くがこの鉱床を採掘していた。代表的な鉱山としては秋田県の花岡鉱山が有名どころだ。特定の成分が結晶化して濃集する鉱脈型鉱床と異なり黒い細粒なガラス質の鉱石であるが、金属成分を多量に含んでいるため重い。見た目はあんまりきれいでは無い。銅・鉛・亜鉛など、多くの成分がごっちゃに混じって含まれている。
また、日本の代表的な鉱山に近代日本を支えた岩手県の釜石鉱山(鉄)や奈良の東大寺の仏像に銅を供給したとされる山口県の長登(ながのぼり)銅山がある。付近には太古の珊瑚礁を成因とする石灰岩が存在し熱水に含まれるケイ酸(石英の成分)がこの石灰岩と反応してケイ灰岩に変化する。そこでケイ酸以外の成分が置き去りにされて凝集することにより鉱床が生じる。ケイ灰岩の生成過程をスカルン作用と云い、この鉱脈をスカルン鉱床と云う。

 

スルカン鉱床-ざくろ石の部分が鉱石

 

日本の鉱石は熱水型の以上、3タイプの何れかに分類される場合が多い。見て楽しいのはやはり熱水鉱脈型でキラキラ輝ききれいだ。私も子供の頃の宝物の1つとしてかけらを持っていたが、あれはどこに行ってしまったのか。

・鉱山の繁栄と負の遺産

八谷鉱山は前記の通り熱水鉱脈型の鉱床を採掘していた鉱山で、主要な事業が戦後から始まった県内でも最も遅くまで稼行された鉱山である。昭和の末期、海外の安い鉱物資源に押されて閉山となったが地下にはまだ手つかずの鉱脈が残ったままだと言う。八谷鉱山は鉱石を採掘するという本来の事業は終えたが、かつての坑道から重金属などの有害成分を含んだ鉱毒水が今もわき出ており、それを処理するための施設が未だに稼働している。同じ米沢にある松川(最上川の上流)も一見、青く澄んだきれいな流れであるが実は魚の住めない死の川である。その上流にはかつてイオウ鉱山が稼行していた。県内には外にも鉱山の鉱毒水が流れ込んで自然環境に支障を与えている河川が相当数ある。
話は変わるが、昨年北海道の長万部で古い資源調査用の井戸から地下水が轟音と共に吹き上げ、周辺住民は夜も眠れないと大騒ぎになった。あれも人間は何もできずただ右往左往して手をこまねいているだけだったが、地下の圧力が自然と下がって自噴が収まったようだ。
幕末のペリー来航の際、黒船四隻で夜も眠れずと幕府の無能ぶりが揶揄(やゆ)されたが、科学技術の進んだとされる現代でも地中の穴1つから出る水すら止められない。鉱山の鉱毒水も止められない。なんかやっていることは昔も今もそれほど変わっていない。それが現実なのだ。人間の業(ごう)により狂った自然は、元に戻るまでそれに倍旧する時間と労力を要求する事を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない。

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第31話 ~洪水のあとで~

 大江町左沢。ここはかつて最上川の舟運が盛んであった頃、大型の艜(ひらた)舟(ぶね)と小型の小鵜飼(こうかい)舟(ぶね)の荷の積替えを行う中継地であった。そのため川港の百目木(どめき)地区には米沢藩の舟陣屋が置かれ、米倉や塩倉などが幾つも並び、また、町内には料理屋や遊郭までもが軒を連ね活況を呈したそうだ。時が移ろい、舟運や港町としての賑わいは廃れたが、水難者の慰霊のために始まったと云う灯籠流しと花火大会が今も左沢の夏の夜を彩っている。


 付図に周辺の地質図を、加えて本号表紙に百目木地区の最上川の写真を載せた。最上川は白鷹町菖蒲からこの左沢までを五百川渓谷と称し、蛇行しつつ北上しているが、この百目木地区で南東側へと大きく舵を切りほぼ反転している。なんでこんなヘアピンカーブのような川筋になったのか、そして百目木地区はどうして川港として栄えたのだろうか。


 東北地方の地盤は常に東西の強い圧縮力を受けている。そのため比較的岩盤の若い(弱い)左沢付近では地層が波打ったように変形しており、地質図上でも赤や青線で示した褶曲軸が南北に整然と並んでいる。また、更に変位が進んで生じた断層が付近に何本も潜在している事が知られている。それらの断層には東西方向の力①だけで無く、南から北上する力②も作用している。大雑把に言えば白鷹山を含む南方の地盤が月山・葉山を擁する北側の地盤と衝突している状態で、当地に歪みが集中する形になった。


 地質図にカタカナの「ト」のような記号が示されている。長棒は走向と言い、地層面の等高線方向を示し、短棒と数値は地層の傾斜方向と傾斜角を表している。百目木周辺の走向傾斜は測る場所毎にバラバラで一定しない。また、当地のように年代の若い堆積岩は水平に近い地層面である事が多いものだがこのあたりでは勾配がかなり大きくなっている。これらは地盤が大きな変位作用を受けてきた事を示唆している。


 最上川は地形・地質の拘束を受けつつ五百川渓谷を北上して当地にたどり着いた。それまで北上するしかなかった流れが、歪みが溜まって岩が破砕した百目木周辺でようやく東に転流する事ができたのだ。但し、あまりに急に転回したためと転流部の河床が岩盤で浸食が進まなかったために、その上流で川幅の広い穏やかな瀞(とろ)となり、良港の条件が揃ったのである。


 百目木地区の最上川は別名「柏(かしわ)瀞(どろ)」とも呼ばれている。表紙の写真を見てほしい。斜めに傾いだ地層が川面に写って柏葉の葉脈のようにも見える。実はこの光景、百年ほど前の古い記録にはあったのだがその後崖を草木が覆って隠れ、つい先頃まで全く見えなくなっていた。それが今年8月の洪水で草木がはぎ取られ、一世紀ぶりにその姿を現したのだ。地元民の私もはじめて見る柏瀞の光景。さながら大きな被害をもたらした災害の僅かな僥倖(ぎょうこう)、絵本の「洪水のあとで」にも通ずるようだ。

 

 

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第30話 ~夕日とひまわりの丘で~

山地を流れる谷川が平野部に開けた地点に扇形の堆積地を作った地形を扇状地と云う。立谷川や馬見ヶ崎川などの扇状地が有名だが、一般的なもの以外にも、複合・開析・海底・土石流・溶岩などの名を冠する様々な機構や起因の扇状地がある。


遊佐町の少し山手に白井新田という地区がある。鳥海山の山麓部に広がる標高百数十m程度の高台で、庄内平野に向かいほぼ一定勾配で緩やかに下った土地である。周辺は百段余の整然と並ぶ棚田が広がっており、秋は大海原を彷彿とさせる広大な稲穂の波に覆われる。西側は、林や丘陵など視界を遮るものが何も無く、庄内平野や日本海、遠くに飛島まで一望できる眺望の良さは、庄内随一の夕日スポットとして知る人ぞ知る名所となっている。
この白井新田の土地は鳥海山から流れ出るいくつかの谷川を集めた下流部にあり、火山噴出物の浸食土や火砕流堆積物による火山麓扇状地と呼ばれる地形だ。火山活動により大量の土砂が一気に供給されたため、なだらかで凹凸の少ないのっぺりとした地形となっている。一般の扇状地と異なり扇状地の上端から末端まで殆ど勾配が変わらない事、堆積土砂が水流による分級が進んでいないため、礫から粘土まで混じった不均質な土が多いことなども特徴となっている。


この地区に広がる水田は、荘内藩校・致道館を運営する原資とすべく開拓されたものであり、これを学田と云う。開墾が始まった江戸時代後期、見通しのきかない藪の測量を夜、提灯(ちょうちん)の明かりを目印に行っただとか、鳥海山から流れ出る沢水が冷たくてうまく稲が育たない障害を改善すべく、つづら折りに流れる水路を作って対処した事などが伝えられている。先人の苦労と工夫の積み重ねが今の美田に結びついているのだ。ちなみに鳥海山の北西側、秋田県のにかほ市では、同じく鳥海山の冷水を温める工夫として「温水路」なる土木構造物が伝えられている。これは川の上流部に、浅くて幅の広い人工の水路を設けて、流水を太陽光により加温する仕組みである。水田に適さない石だらけの山間部に、数百m以上にわたって殆ど手作業で水路(と云うより川!)を穿(うが)った先人の執念とも云える気概に、唯々恐れ入るばかりである。


遊佐町の白井新田には、最初、町の宿泊型学習施設「しらい自然館」の地質調査で訪れた。季節は初冬。平野部には全く雪が無かったが、現場では数十㎝の積雪が。辺り一面灰色に霞んだ世界で猛烈な風が吹き荒れていた。内陸と庄内の最もつらい環境を合わせたような景色に、なんでここに人が住む集落があるのかと不思議にさえ思ったものだ。でも別の季節に再訪したときに納得した。カラッとして澄み渡った大気と鳥海山や日本海を望む絶景。なんとも言えない極上の開放感に包まれていた。ここは冬を乗り越えたご褒美と喜びが一年間ずっと続く土地なのだと。

 

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第29話 ~日本の継ぎ目はどこ?~

 Vol.26の稿で「棚倉構造線」の話をした。棚倉構造線は中央構造線やフォッサマグナに並ぶ大断層で、北関東・上越と東北・北日本の地質的な境となっている。


 昨年、小国町の川沿いでボーリング調査を行う機会があった。調査地点は既存の調査データといくらも離れていないのに全く違った地層が現れ、大いに面食らったものである。既往の調査孔は上部の河成土砂を除けば全部「花崗岩類」であった。新たな調査孔の岩は上から、凝灰岩・ホルンフェルス・凝灰岩・黒灰色の粘土・花崗岩とめまぐるしく変化する。花崗岩は7千万年くらい前にできた基盤岩。その上に重なる凝灰岩は、1千5百万年くらい前の火山起源。間に挟むホルンフェルスは日本列島が大陸にくっついていた時代(2億年以上前!)の泥岩・砂岩のなれの果て。もう地質年代がぐっちゃぐちゃ。途中に50㎝もの厚さで挟む粘土に至っては、一体何なのかすらも分からない。


 いろいろ調べてみると近くに大きな断層があるとの情報が。もしかしたら断層の真上を掘ってしまったんじゃないかと考え、作成した断面が添付の図である。一番下は花崗岩。その上に断層で凝灰岩が斜めに乗っかった構造でホルンフェルスは凝灰岩ができたときに転がってきた岩塊だろうと推定。そして岩に挟まれた粘土は断層粘土じゃないかなと。断層粘土は断層の滑った面で鉱物がすり潰されてできるもので、厚さ10㎝くらいのものまでは見たことがあるが、50㎝の厚さの断層粘土など寡聞(かぶん)にして聞いたことが無い。まあ、断層粘土か否かは特有の鉱物が生成されるので調べれば分かるらしいのだが、今はモノが手元に無いので確認のしようも無い。

 そして更に奇妙なのがこの断層。東北地方は東日本大震災の起因にもなったプレートの動きによって、随時、東西方向に強い圧縮力を受けている。なので一般的に断層は、片側の地層の上にもう一方の地層がのし上がる「逆断層」になる。しかし図示の断層は、右側の凝灰岩が滑り落ちる「正断層」でないと辻褄が合わない。50㎝もの断層粘土を持つ大規模な正断層など、東北にあるのかと訝(いぶか)しく思ったが、調査の目的にはそんなの関係ネェので、その時はことさら深くは追求しなかった。

 そして、ここからが持論。大昔、日本列島が大陸から離れて日本海が生まれた時代、活発な海底火山でグリーンタフ(緑色凝灰岩)ができた。当時の日本列島は東に引っ張られつつ沈降や隆起を繰り返して今の列島の形に収束していった。隆起と沈降の境が冒頭に述べた「棚倉構造線」などの大断層。引っ張られつつできたので「正断層」。そして小国町の調査地は棚倉構造線の北方延長上。なんと齟齬(そご)無く見事に結びつくのだよ。どうやらオレは日本の継ぎ目を掘っちゃったらしい。2億年の時空を旅する一大スペクタクルに、鼻腔を広げ一人興奮している変な男がここに居た。

 

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第28話 ~砂丘の甘露~

 庄内平野の沿岸部に広がる庄内砂丘は、南部の鶴岡市湯野浜から北端の遊佐町吹浦まで全長35㎞に及ぶ日本最長の砂丘である。砂丘というと鳥取砂丘が有名であるが、あちらは草木の無い裸の砂山であるが庄内のそれはびっしりと黒松が生い茂っており、同じ砂丘でもだいぶ様相が異なる。庄内地方は強風が吹き荒れることが有名で、特に冬期は1ヶ月の内20日以上も暴風(風速10m以上)が吹く。このため防風林が無ければ一冬で1mもの堆砂があるとされ、昔は砂に埋もれて移転を余儀なくされた民家がいくつもあったと聞く。


 そもそも「砂丘」とは風で舞上げられた砂粒が丘状に堆積したもので、条件さえ揃えば内陸にもできる。一方、よく似たイメージで語られる「砂漠」は降雨の極端に少ない土地の事であり砂丘の有る無しとは直接は関係無い。


 庄内砂丘は構造上、ベースとなっている海側の第一砂丘と、それを覆い内陸側にこんもりと盛り上がった第二砂丘とに分かれる。第一砂丘は縄文時代には完成されていたとみられ、広葉樹の生い茂る林であったようだ。赤川放水路建設に伴う発掘調査にて第一砂丘の上部に粘性土層(旧来の表土)の発達と縄文人が暮らしていた痕跡が発掘されている。その時代の庄内平野はこの砂丘と辺縁部の山際に人々が暮らしていたようで、平野内部は広大な湿原が広がりとても人々が居住できるような環境では無かったらしい。人々が平野内部に定住し始めたのは平安時代になってからだと言われている。


 現在は黒松による防風林に覆われている庄内砂丘であるが、かつてこの林が失われる危機が二度あった。一度目は江戸時代初中期、庄内浜で盛んになった製塩業のあおりで燃料の薪として砂丘の自然林が無秩序に伐採された。庄内藩は豪商本間家をはじめとする植付役を定め、潮風に強い黒松を植樹して樹林の回復を計ったのである。二回目は太平洋戦争の戦時下。松根油を採るために大量の松の木が伐採・抜根され防風林が荒廃した。これに対しては戦後、近在の農家を含む多くの人々が植林に参画して松林の復旧を成し遂げた。


 庄内砂丘は砂地の高台であるが意外にも地下水が豊富である。多雨の年などは、砂丘内に自然の池ができるほどに水位が高い。地下水の循環プロセスに不明な点はあるが、第一砂丘の上部に発達した粘性土が遮断層となって降雨起源の地下水を貯留しているのだと考えられている。病原菌が付きづらく水はけの良い砂質土壌と浅部に豊富にある地下水、湿度の低い潮風の吹く環境を生かして庄内砂丘は現在、ネットメロンの一大産地となっている。でも最初からメロン栽培が順調だったわけでは無い。アンデス種をはじめとする地道な品種改良と篤(とく)農家による栽培方法の研究開発によりようやく軌道に乗ったものだ。言い換えればこの砂丘を護り育ててきた先人たちの汗と努力の結果が今、甘美の実を結んでいるものともいえる。

 

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第27話 ~米沢はおいしい~

米沢市街地の西方、一刀彫りの里・笹野本町の背後に笹野山がある。頂にテレビ局の送信所が並び、市街地側から見ると定高性の峰が横になだらかに連なっている。尾根筋には遊歩道が整備され、早春、残雪を踏みしめながらの縦走トレッキングは特に人気が高い。笹野山を中心とするこの山列を斜平山(なでらやま)とも称し、山形百名山にも数えられている。米沢の人は山肌の残雪の模様で春の訪れを知り、農作業の準備を始めるそうだ。

 

斜平山は南北方向に長く背後に小さな谷川が控えているが地形はそれほど険しくない。特徴的なのは市街地側の東側斜面で、山高の上部1/3ほどが屏風(びょうぶ)のような襞(ひだ)々(ひだ)を有する急崖となっており、その下に緩やかな低丘陵地帯が続いている。急崖部分は裸地では無くほぼ全面が灌木で覆われており、崖下の丘陵地は密度の高い広葉樹林となっている。この斜面は形状から判る通り、明瞭な地すべり地形である。滑落崖とみられる上部の急崖は活動した当時の地形の特徴を残しており浸食もあまり進んでいないことより、時代的にはそれほど古いものではない。但し、斜面下方の丘陵地はその後の変動跡や不自然な段差なども見られず、地すべりとしては安定化しているようだ。

 

この丘陵地上には、水窪ダムと綱木川ダムから引水する県の浄水場があり、その周辺に果樹園が少しあるが、他は殆ど利用されておらず元来の地形を保っている。二十数年前、この丘陵地の谷沢で砂防ダムの地質調査を行った事がある。とりわけ地形が険しいわけでも集落からの距離が格別離れている訳でも無いのだが、山に分け入る道らしい道が無く、民家の庭先から数百mのモノレールを組んで資材を運搬した記憶がある。あまり丘陵地の開発利用が進んでいない地区なのだと感じたものだ。

 

余談だが業務中、庭先をお借りした老夫婦のご厚意で私はそのお宅に上がり込んで弁当を広げるようになっていた。その際供されたのが雪菜のふすべ漬け。ぴりっと辛くて僅かな酸味があり大層美味であった。おかわりを所望してまでたくさんご馳走になってしまったが、季節外れの貴重な雪菜漬け、今考えると大変不躾(ぶしつけ)だったと気に掛かる。私はその後もあの味を忘れられず、種子を取り寄せてとうとう自分で作ることに挑戦した。手の掛かる子供のように慈(いつく)しみながら育てると、何年か後、ようやく満足できる雪菜が採れるようになった。秋に生菜を集めて雪をかぶせ、冬、その下から掘り起こして洗浄し、短冊に切りそろえふすべて漬け込む。(ふすべる:熱湯で湯通しする)想像以上の手間が掛かるが潤沢に食することができるようになった。でもああいうものは、たまに少し食べられるから良いんだね。いくら大量にあってもメインの食材にはならないし家族も喜ばない。苦節十ウン年、雪菜にとりつかれた男の栽培記録はあえなく終焉(しゅうえん)を迎えたのである。

 

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第26話 ~日本のチベットとよばれた村~

 西川町の西部、朝日山地の山懐に抱(いだ)かれるように大井沢地区がある。数年前、僻地で活躍した女医の生涯を綴った「いしゃ先生」と言う映画が公開されたが、その舞台となった村落でもある。付近には大朝日岳を源とする寒河江川が北流し、その左岸側に田畑が開けぽつんぽつんと集落が点在している。集落の背後は緩やかな丘陵地が連なるが、西側で次第に険しくなり遠く朝日山地の稜線へと続く。対する右岸側は小高い起伏山地が並び、川岸から直ぐに単勾配の急な斜面が山頂まで駆け上がる。

 

 大井沢地区の寒河江川は南北に流路が直線状に延びるが、これは古い大規模な断層と考えられている。福島県の南東部、棚倉町を通り北北西方向に延びる「棚倉構造線」と呼ばれる大断層群がある。関東以北の北東日本は地質的な特徴より大きく5つの地帯に分けられ、山形県のほぼ全域は阿武隈帯と云う地質帯に含まれている。その西隣には北関東から新潟を含む足尾帯が接し、その境界を成すのがこの棚倉構造線だとされており、大井沢の断層はこの棚倉構造線の延長だとする説がある。ところがこの構造線、福島県内ではだいたいこの辺を通っているのだろうなぁ、という位置が分かっているのだが山形県に入ると途端にあやふやとなる。朝日山地を挟んで幾つもの断層に枝分かれし、メインとなるルートが特定できてない。だが少なくとも大井沢の断層は県内でも有数の規模であり、北上して月山火山に阻(はば)まれるが、それを乗り越えた延長上には庄内町を流れる立谷沢川に再びまみえる。この立谷沢川も南北に延びる直線状の河川で断層谷とされている。つまり、大井沢の断層とこの立谷沢川の断層は本来、連続する一つの構造線であり、後から月山が噴火して火山ができたのだ。これらの断層が最も活動したのは新第三紀の中期、今から一千万年ほども前の事であり、月山が噴火して山になったのが数十万年前。月山などごくごく若造のニキビみたいなものに過ぎない。また大昔、大井沢の谷底は細長い湖(大井沢湖)だった時代があり、集落周辺のなだらかな地形を作る堆積岩類がその時に生成したと考えられている。

 

 かつての大井沢村は近郷の商業地として今の大江町左沢(あてらざわ)と結びつきが強かった。左沢までの道のりは約20㎞。距離もさることながら途中には大井沢峠のきつい山越えがある。山道での荷物の運搬は人肩で担ぐか馬に括り付けるしかなかった。昭和初期の地形図には大井沢の主部から今の大江町柳川まで、全長約6㎞もの索道(ロープウエイ)の存在が記されていた。この索道、詳細な資料が一切残されていないが、おそらくは山菜など農産物の出荷や左沢で購入した品物を山越えするために設置されたものだろう。だがもしかしたら例年3mもの積雪で外界と閉ざされる冬季、人命を維持するためのそれこそこれが「最後の頼みの綱」であったのかも知れない。

 

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