さんぽみちのちしつColumn

第33話 ~袂を分けた霊水~

2023年03月10日(金) 

赤川は幹線流路長70㎞,流域面積約860k㎡あまりの山形県で二番目に大きな河川である。朝日山脈の一峰、以東岳に源を発し、出羽三山からの流水を集めて北上し、地芝居歌舞伎で有名な酒田市黒森地区付近で庄内砂丘を横切り、直接日本海へと注いでいる。


今は治水対策も進み、それほど大きな水害を生じなくなった赤川であるが、かつては数年に一度は大氾濫を繰り返す暴れ川であった。昭和初期までの赤川は最上川河口で京田川と共に合流しており、赤川は最上川の支流のひとつに過ぎなかった。そのため豪雨の度に河口部で流水が横溢(おういつ)し、庄内平野でも特に標高の低い地帯を流れ下る赤川の下流域とその支流の大山川周辺は、慢性的な洪水の常襲地帯となっていた。比較的近代まで湿田としても耕作できない湿地帯が広く河口一帯に広がっていたものである。そこで時の政府は治水対策として280町歩もの圃場を取りつぶし、赤川の川幅を広げる工事を計画した。しかし農民が水田を取り上げられては生活が成り立たず地域経済が衰退する。たまたま酒田を訪れていた今の秋田県大曲出身の政治家、榊田(さかきだ)清兵衛は実状を目の当たりにし、この計画は無理があり却って地域の荒廃と農民の離散が進むと憂えた。そこで彼は東奔西走して国に強く働きかけ、ついに大正10年、庄内砂丘を横切る赤川放水路(新川)の開削工事が直轄事業として動き出す事になる。


赤川放水路の建設は大正10年から昭和11年まで、15年の歳月と延べ120万人の人工(にんく)、当時の最新式掘削機械を投入し行われた。放水路の延長は2.7㎞あまり、砂丘の最も高い部分は標高25mほどもあったと云う。掘削の一部は機械が使用されたとは言え、作業の大半は人力頼みで土砂の運搬はトロッコ馬車が用いられた。全国から作業員が大勢集まり、地元の黒森地区には宿屋や飲食店が建ち並び大層にぎわったと聞く。


ようやく完成した赤川放水路であったがこれだけでは暴れ川は治まらなかった。その後、八久和・荒沢・月山の各ダムの建設や河道の修正、築堤護岸工を進め、平成に入ってからようやく多少制御ができるようになってきたに過ぎない。くだんの赤川放水路も拡幅や沿岸部の保全工などが継続され、つい先頃の平成13年、ようやく完全な竣工に至ったのである。


「赤川」と言う名の川は全国で30あまりもあると云う。その多くはアイヌ語の川を意味する「ワッカ」の転訛であったり、鉄分が多くて赤黒く濁った水色から来ているそうだ。しかし山形赤川は霊峰の雪どけ水を集める清らかな流れであり、少なくとも赤黒い濁水では無い。諸説あるが、出羽三山を流れ下り流域に梵(ぼん)字(じ)川(がわ)などという修験道を連想させる名もある事より、神仏に供える「閼伽(あか)水(みず)」と関係しているという説が至極尤(もっと)もだと思う。赤川は霊験あらたかな神聖な流れなのである。

 

カテゴリー:さんぽみちのちしつ

お客様のお困りごとを教えて下さい