2022 4月 08のアーカイブ

第24話 ~政宗の夢~

 海岸沿いに荒波で生じた土砂の高まりを浜堤(ひんてい)と呼ぶ。浜堤は砂礫や砂地であり、水はけが良く、防風林の松林が続きその間に漁村が点在しているような土地である。仙台平野の沿岸部、その浜堤の背後に一本の運河があるのをご存じだろうか?。阿武隈川の河口から始まり、海岸線に沿うように北上し塩釜湾まで延々36㎞にも及ぶ。この運河、あの伊達政宗の時代より建設が始まったことより、政宗の諡(おくりな)から貞山堀または貞山運河と呼ばれている。実は塩釜(松島)湾から更に北上し東名運河・北上運河と辿(たど)れば、石巻市の北上川河口まで続いており、総延長49㎞に達する日本最大の運河系でもある。(現在は一部が埋め立てられて不通となっている)


 政宗時代の仙台藩は今の宮城県全域の他、岩手県の南部や福島県の一部、合わせて60万石余を治め、物流の一大拠点として栄えた。所領及びその周辺各地から仙台に向けて大量の物資が運ばれたが、舟運(しゅううん)がその役の大半を担っていた。しかしながら、吃(きっ)水(すい)の浅い川舟では外海に出られず、河口部の港でいちいち海用の大型船に物資を積み替えなければならない。これが時間的にも費用的にも流通上の大きなネックになっていた。そこで川舟のまま仙台城下や塩釜湾まで物資を運搬する手段として長大な運河建設の構想が生まれたのである。また、運河は未開の湿地であった阿武隈川から名取川河口周辺の新田開発のための放水路としての役も担った。このため付近には平野部から続く河川が貞山堀に注いで終わり、海まで流れ出ていないものが何本もあって興味深い。貞山運河が着工されたのは政宗の晩年1660年頃、最終的にすべての運河が繋がったのは明治期に入った1887年であり、完成まで実に200年以上もの時が流れた。だが皮肉にも運河の完成とほぼ時を同じくして今の東北本線が開業し荷役の主流が鉄路に移ったため、物流の大動脈としての責務を果たさないままその存在意義を失うことになったのである。

 近代の貞山堀は運河としては使われなくなったが、漁港の船だまりとして、また一部は、シジミ漁・しらす漁の漁場として利用されていた。また、遊歩道・サイクリング道路の整備が進み、大都市近郊の散策林としても使用された。しかしながら2011年3月に発生した東日本大震災の大津波により沿岸集落や松林のほぼすべてが流失してしまい、現在では見通しの良い廃村のような原野に、水路が一本真っ直ぐに走っているだけのうら寂しい風景となってしまった。

 江戸時代初期からの土木構造物が、ほぼ完全な姿で今に伝えられている例はそう多くない。文化的遺産として保護すべきという動きもあるが、完全に役目を失った構造物をはたしてどの程度護れるものなのか。もしかしたら今見ておかないと、永久に失われてしまうはかない夢なのかも知れない。

 

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